『歌をうたえば靴が生る』
アカバナトチノキ (花のかわりに靴が咲く)
二枚の画像のうち右側は、街路樹のアカバナトチノキに引っ掛けられた運動靴を大写ししたものである。
つま先とかかとの部分が赤いから、女の子のスポーツ・シューズの片割れかもしれない。
散歩中にこの光景に出合ったことで、いろいろな思いが押し寄せてきた。
まず最初に頭に浮かんだのは、『靴が鳴る』という唱歌のタイトルである。
街路樹に生(な)っているから、これは『靴が生る』ではないか。
のっけからダジャレで申し訳ないが、まずは忘れかけていた唱歌のタイトルと歌詞の関係に思いを馳せたというわけ。
ちなみに歌詞は次のようなものである。
お手(てて)つないで 野道を行(ゆ)けば
みんな可愛(かわ)い 小鳥になつて
歌をうたえば 靴が鳴る
晴れたみ空に 靴が鳴る
花をつんでは お頭(つむ)にさせば
みんな可愛(かわ)い うさぎになつて
はねて踊れば 靴が鳴る
晴れたみ空に 靴が鳴る
この歌は1919年(大正8年)に雑誌「少女号」11月号に発表されたとされている。
2007年(平成19年)には、「日本の歌百選」にも選ばれている。
ところで歌詞については、漠然とだが、なぜ「歌をうたえば靴が鳴る」のだろうと疑問に思っていた。
2番の歌詞を見ると、可愛いうさぎになって「はねて踊れば靴が鳴る」となっている。
なるほど、この部分に差し掛かれば「靴が鳴る」理由はわかる。
そして、この部分が歌詞全体にかかっているのだなと理解できる。
だからこそ、タイトルも「靴が鳴る」なのだ。
靴が鳴る・・・・靴が鳴る・・・・靴が鳴る・・・・どんな靴が・・・・どんな場所で・・・・?
文部省唱歌「靴が鳴る」を唄うことはあまりなくなったが、誰かが街路樹に靴を引っ掛けたおかげで、通常なら通り過ぎてしまう道でしばし立ち止まり、靴の意味を考えた次第。
あまりピンと来ない「靴が鳴る」の代わりに、「靴が生(な)る」もありか。
蛇足だが、靴の掛けられた位置は、子供には手の届かない高さである。しかも片方だけ・・・・。
(落し物に気づいたら、持って行ってください・・・・)という親切心だろうが、すでに三日過ぎたが、未だに靴はなくなっていない。
(おわり)
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さすが詩人です。
靴と手袋は落ちているのを見かけるとどきりとし、そのまま放置できない気分になりますね。
つい拾い上げて目に付きやすいところに置いてやりたくなります。
靴と手袋は理屈を超えて生々しく持ち主の足と手を連想させるからではないかと私は思っています。
私も冬になると散歩の途中たまに手袋が落ちているのを見かけますが、どうしてもそのまま行き過ぎることが出来ず、目立つ塀の上や木の枝に引っ掛けてやることになります。
3日ほど前ももう暖かなのに散歩コースにしている川の土手の柵に左右揃った手袋が落ちないようにして引っ掛けてありました。見かけた誰かがそうしたのでしょう。
翌日にはなくなっていましたから、もしかしたら落としたご本人が持っていかれたのかも。
それにしても片方の靴をなくして片足裸足になったた女の子は、その後どうやって帰ったのでしょう?
余計な連想かもしれませんが、いろんなシチュエーションが浮かびます。
たしかに生々しい痕跡が、それらにはあります。
だから、誰かが取りに来たろうかと、毎日確かめに行く事になるわけか。
話変わって、アカバナトチノキって街路樹にぴったりですね。
靴の一件があって、初めて花が咲いていることに気づきました。
ぼんやりしてばっかりで・・・・。
着眼点と発想力の凄さは
さすがtadaoxさまです
お写真拝見すると
確かに街路地に生ってるようですね(^O^)
ず~っとむかーし
まだ小学生だった頃の
教科書だったかと思います
季節外れの山茶花の話でした
内容は忘れてしまいましたが
近くでよく見ると山茶花ではなく
誰かが落とした赤い手袋だったというオチでした
それにしても凄いことですね
子供の頃に読んだ話を思い出すなんて・・・
いいエッセイとは
脳のどこかを刺激して
遠い昔に忘れかけた記憶も
思い出させてくれるのでしょうね
どちらも忘れ物ですが
心に深く刻まれたお話です
PS: コメントは確か
16日の夜にUPしたつもりですが
消えていたみたいです
気が付くのが遅くなりすみませんでした
教科書に載っていたという山茶花と手袋の話、印象的ですね。
子供の脳って、シワの奥深くに刻まれるのかもしれません。
いい話を聞かせていただき、ありがとうございました。