(あるジャーナリストの死に思うこと)
ーー『犠牲(サクリファイス)』との符合が示すものーー
なんという現実の厳しさであろうか。
なんという人間の酷(むご)さであろうか。
連日ニュースとして報道されてきたイスラム国による人質拘束事件は、日本人二人の処刑という悲惨な結末をもって当面の終止符を打った。
しかし、この事件を契機として、今後日本人をテロの標的とするという表明がなされたことから、あらたな危険と心理的圧迫を受ける事態となった。
ある意味「のほほん」と生きてこられた日本人ゆえの恩恵が、にわかに不確かなものになったのである。
人質救出にかかわる政府の対応について、国会やマスコミ各社がさまざまの見解を掲げて、処刑に至った直接の原因と責任を検証しようとしている。
われわれ一般人には安易に判断のできる事柄ではないし、今後の展開も予測がつかないことだから、ただただ不測の事態が起きないことを祈るばかりである。
それならば、何を考え何を発信すれば犠牲になった日本人二人の死に応えられるのだろうか。
ここではまず、ジャーナリストの後藤健二さんが、危険を冒してまで紛争地に潜入した理由を推測してみる。
伝えられるように、湯川さんに関する情報の入手と救出が目的だったのか。
生まれたばかりの乳飲み子と幼児を残してまで危険を冒す行動に、差し迫った理由があったのだろうか。
マスコミによってもたらされる情報に、いくら耳をそばだてても解明できない。
だが、後藤さんという人間に近づく手がかりはある。
たまたま読んでいたノンフィクション作家・柳田邦男氏の著書『犠牲(サクリファイス)』に記されていた人間の核心に迫る記述がそれだ。
以下は、人間の悟性と神性にかかわる衝撃的な符合の報告である。
まずは『犠牲(サクリファイス)』(文藝春秋)について、概略を記しておこう。
初版は1995年で、副題に「わが息子・脳死の11日」とあるように、柳田氏の次男洋二郎さんが自死を図った際の脳死に至る記録である。
医学についても造詣の深い著者が、病院の医師と交わした脳死や臓器移植に関する会話や、息子の死に向き合う肉親としての思いなどが余さず記されている。
さらには神経症で日常生活もままならない母親と、著者の相談相手でもある聡明な長男賢一郎さんの登場で家族の姿が明らかになる。
ともすれば暗澹たる一家の記録と思われがちだが、読み進めていくうちに人間の純化された精神が仄見えてきて、意外にも心が明るくなる瞬間がある。
もともと次男が自死に追い込まれた原因は、中学二年の三学期に教室内で級友にチョークを投げつけられ、右目に眼房内出血を起こす大怪我をしたことからだ。
その後、次男は対人恐怖・視線恐怖・強迫思考などを中心にした神経症に陥ったにもかかわらず、人間を信じ人間の過ちを許そうとする姿勢を取りつづける。
彼は与えられた短い時間を使って、人間の根源的な生き方の指針となる文学や音楽・映画などを、自身の人生に同化するまで読み込んでいく。
日記の中にも登場する作家の一人ガルシア=マルケスの『百年の孤独』について、著者は次男の心中にあるものを次のように説明する。
(彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった。)
一方、子供の陥った精神的苦痛に耐えられずに、母親も神経症に引きずり込まれていく。
寝室にこもり、薬物によってやっと心の平衡を保っていた母親には、著者も次男の自死を告げることができなかったほどだ。
そうした困難な状況の中で、著者は次男が残した日記や小文を手がかりに、繊細な感性を持つ成長期の青年が何を考え何を求めているのか探ろうとする。
幸いなことに洋二郎さんは、われわれにいくつかの存在の輝きを残している。
彼がつづった断片の中に、暗示的な一文があるので引用させていただく。
(天才映画詩人タルコフスキーの遺作映画『サクリファイス』は、感慨深く観た。ある意味では、この映画を契機として、この文章を書くことになったといえる。・・・・喉の手術をしたばかりで、声の出ない少年の父アレクサンデルは、生命の樹を植える誕生日に、核戦争勃発の声をテレビで聞く。苦悩の果てに神を信じていなかったアレクサンデルが、この時はじめて神にすがろうとする。・・・・主祷文を唱え、持てるものすべてを捧げますから救ってくださいと彼は自分の言葉で祈りはじめる。(祈りを拒絶してきた自分<=洋二郎自身>が、それをうけいれられたのは、アレクサンデルの人間としての崇高さに起因していると思う)
(・・・・自らの狂気をかけて愛する人々を救うために<サクリファイス=犠牲>を実行する。アレクサンデルは郵便配達人オットーにすすめられ、バルト海をのぞむ島の白夜の中を魔女マリアのもとに行き秘蹟を求める。・・・・相擁する二人は空中に浮遊する。かくして奇跡は行なわれ、すべてはあの穏やかな誕生日のままであり、明るい日が窓から射し込んでいる。だが、アレクサンデルは神へ「捧げ物」をしなければならない。この世は救われたのだ。・・・・こうして彼は愛する家に火を付け、自らは精神病院に収容されることになる。映画の冒頭から医師ヴィクトルが彼の面倒をみているが、妻や娘はもはやアレクサンデルを好かず医師ヴィクトルに惹かれている。だが、そんなろくでもない家族のためにアレクサンデルは祈った。・・・・生命の樹に水をやる息子。その横を父を乗せた病院へむかう車が過ぎる。初めて少年が喋る。「初めにことばありき、なぜなのパパ?」)
次男洋二郎さんは、タルコフスキーにおける「犠牲」とは、ほとんど「生贄」と同義語と理解していたようだ。
(ぼくがこの映画を観て、自分の中で蟠り曖昧模糊としたものについては、辻邦生が、『サクリファイス』が語りかけるもの、として見事にいいあててくれた。・・・・「ただ一つ重要なことは、私たちの平凡な一日一日が、アレクサンデルがあがなったような『犠牲』によって支えられている、と意識することだろう。それがどこの誰の手によるか、私たちには知ることができない。・・・・ただ、そう思うことによってのみ、私たちは、この世界を辛うじて人間に価するものにすることができるのではないか。・・・・タルコフスキーのこの遺作は、いまこのとき人に残されているのは、不毛なものを『希望』に変えつづける意志だ、と言っているように見える」)
(・・・・冒頭のタイトル・バックに出るレオナルドの「東方の三賢人の礼拝」と共にバッハの「マタイ受難曲」のアリアが聞える。ラストシーンの少年の呟きのときもアリアが流れた。ぼくは感動してそのアリアに感情移入し、心が高揚したのを覚えている。・・・・魔女マリアの前で懇願し、鬼気迫る形相で、「我々を殺さないで」といい、頭にピストルを突き付けるアレクサンデル。こんなおどろくべきショットをタルコフスキー以外のだれが見出し得たか。)
(・・・・限りないやさしさと高邁な精神の持ち主、タルコフスキーは死ぬ前のインタビューで次のようにいっている。「自らをささげ、犠牲とすることのできない人間には、もはや何もたよるべきものがないのです。(私自身が犠牲をなしうるか?)それは答えにくい事です。誰にとっても同様、私にもできないことでしょうけれども、そうなれるようにしたいと思います。それを実現できずに死を迎えるのは実に悲しい事でしょう」・・・・あまりにも核心的な発言であり、ぼく自らが志すべき信念として見習うべきだろう。)
かなりの量を引用させてもらったが、タルコフスキーに同化しようとしている洋二郎さんの文章を読んでいるうちに、ぼくは後藤健二さんの曇りのない笑顔を思い浮かべていた。
地球上の数々の紛争地に出かけて行き、戦火に痛めつけられた女性や子供たちにカメラを向けつづけた行動は、報道というよりも彼の信念に満ちたメッセージの発信ではないのか。
事実「子供たちこそ人類の希望なのだ」と映像の中で答えている。
しかし、現実に戦争や紛争のなかった世紀はない。
後藤さんの報道写真・著作物の出版・学校での講演など精力的な啓発活動にもかかわらず、紛争による難民は増えつづけている。
後藤さんの発信するメッセージには、祈りが込められているのではないか。
タルコフスキーが描いた『サクリファイス』の中のアレクサンデルのように、自己犠牲を厭わない行為に踏み出してしまったのではないか。
もし伝えられたように湯川さんの救出が念頭にあったとすれば、それはジャーナリストの範疇を超えた行動だし、無意識のうちに神への捧げ物を携えていったとしか思えない。
子供たちに希望を託するため、魔女マリアのもとに行き、秘蹟を求めたのではないか。
自らの身を犠牲にしてでも、不毛なものを『希望』に変えつづける努力をしたのだと、ぼくは思う。
後藤健二さんについての夥しい映像を見るにつけ、ますます高潔な印象が深まるばかりで、とても真似はできないけれど辻邦生がいいあてたという言葉にのめり込んでしまう。
「ただ一つ重要なことは、私たちの平凡な一日一日が、アレクサンデルがあがなったような『犠牲』によって支えられている、と意識することだろう・・・・」
後藤さんが『希望』とした難民キャンプ等で命をつなぐ子供たちが、やがて口を開くときがくる。
それが初めて喋ることの出来た少年だとすれば、「初めにことばありき、なぜなのパパ?」・・・・後藤健二さんの目指した地に向けて、永遠の祈りを捧げるものである。
(おわり)
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