「美しい眺め」という意味のベルヴェデーレ宮殿は、ハプスブルク家の夏の離宮として
造られました。大きなバロック庭園をはさんで、上宮と下宮が向かい合う設計です。
上宮は内部が美術館になっており、クリムトの「接吻」があります。この絵を見るのも
大きな楽しみのひとつでした。シェーンブルン宮殿と違って団体観光客がほとんど
来ないところなので、有名な絵もガラガラの環境でゆっくりと堪能できました~^^
観光客って、「箱」には大挙してやってくるけれど、美術品には来ないからねェ。
でもね、もし「接吻」が上野の美術館にでも来ようものなら、入場に何時間待ち、
入ってもぎっちりの行列で人の後ろ頭ばっかりしか見られないんだよw(^益^)w
9月の旅行はお勧めです。8月のように混んでないし、10月になると一気に寒くなる
からです。ま、そりゃ他の人が休めないときに休むのが一番ですけどね^^;
8月の東京は連日35度を超える記録的な猛暑。こちらに来たら、日中の最高気温が
15~20度と涼しく快適。夜はよく眠れましたよ~。
さて、長らくフランスとヨーロッパの覇権争いを続けていたオーストリア帝国の歴史を
たどってみることにしましょう。まず始めにヨーロッパにおけるオーストリア帝国とは、
ハプスブルク家による王朝の歴史といっても過言ではありません。
この一族の由来は11世紀のスイスに始まりますが、その発展は1273年、
ルードルフ1世が神聖ローマ帝国(ほぼ現在のドイツだと思って下さい)の王位に
つくところから始まりました。
この名誉ある地位は、「選帝侯」という三人の聖職者と四人の君主による選挙で
選ばれるものであり、投票する選帝侯たちは当時最大の実力者であり本命であった
ボヘミア王を権力の座につけることに恐れをなし、組織票をもって無難なルードルフを
選んだのです。これには突然神聖ローマ帝国の王と指名された本人が一番驚いた
のでした。「たなぼた」の始まりでした。
つまり、ジャイアンにリーダーをやらせるのはちょっと怖いから、この際のび太に
やらせちゃおうよ、とスネ夫みたいな連中が何人かで画策したようなものです。
ジャイアンは怒り、のび太はビビり、スネ夫たちは「知らねーよ」です。
さらにハプスブルク家が飛躍したのは、15世紀後半にマクシミリアン1世が
ブルゴーニュ公国(フランス東部とドイツ西部にまたがり、ベルギーやオランダも含む)
の跡取り娘と結婚し、またもや「たなぼた」でその国の君主となった、というあたり
からです。男の子が生まれないと、王女様が婿殿を迎えるわけですが、立派な国の
君主になるんだから立派な家柄でなくちゃいけない。そこで「神聖ローマ帝国の
王族」という看板がものを言うわけです。
そこからハプスブルクの発展を支えた政略結婚の歴史が始まります。マクシミリアン
は息子のフィリップをスペイン王女と結婚させ、孫のカール5世がスペイン王となる。
よそから来た婿様はちょっと肩身が狭いけれど、その息子は、その国生まれの
立派な王様でしょ^^
当時スペインは中南米に領地を持っていたので、自動的にカール5世は大西洋を
越えた領地の君主にもなり、さらにスペインが支配していたナポリの王にもなる。
またマクシミリアンは、さらに別の孫のフェルディナントとマリアを、ハンガリーの王女と
王子の二人とダブル結婚をさせ、結局ハンガリーとボヘミアの王位はハプスブルクの
ものとなる。
これに続く絶頂期の領土は、イギリスやフランスをのぞくヨーロッパのほとんどを
その傘下におさめるほどになりました。ハプスブルク歴代の王と女王は、子供を
十人以上産むのがざらであり、この一族は武器ではなく、愛と結婚によってその
勢力を広げていったのです。
神聖ローマ帝国の王族から、カッコイイ王子様がやってきたり、かわいらしい
お姫様が嫁いでくる。その国の市民たちは熱狂して喜び迎える。お披露目や
パレードでは大騒ぎ。どんな人だ、どんなことをした?と巷ではその話題でもちきり。
大喜びされて、血も流れることなくハプスブルク家はヨーロッパ中をその支配下に
置いたというわけ。