さてさて、函館山に登ってみましょう。先日は週末だったので、ロープウェイの
入り口まで行きましたが大行列を見て挫け、平日なら大丈夫だろうと行ったのです。
うへー!平日もへったくれもねーです。中国人もたくさんいます。これは景色を
見るのも大変。とりあえず人の後ろに並び、少し空いたらズルズルと前に行くしか
ない。なーんか嫌なんですけど、でもせっかくここまで来て見ないわけには…w
まもなく夕暮れ。夜景がきれいなので、ちょっとそれまでブラつこう。
裏側に行ったら、ちょうと日没でした。ロウソクの炎のように見えました。こちら側は
空いているのですー^^
はじっこで一服したり、混雑した土産売り場で絵葉書を買ったりと時間をつぶす。
まもなく暗くなってきた。きっとまた混んでいるんだろうなあ~w
…と展望台に戻ってみると、ぐはー!人がぎっしり!朝の新宿駅よりひどい。
景色の見られる手すりまで、数メートルはあるだろう。すきまに入っていかないと
前に出られないので、ぎゅう詰めの行列だ。たまに前から人が出てくるので、下がら
ないようにしっかりズリズリと前進しなければならない。何も見えない所に呆然と
立ち続ける。
グループで来ている人たちはおしゃべりをしているが、「あと10分で降りないと~」
などと集合時間を気にしている。団体旅行だと、展望台で1時間とか、短いと30分
なんて忙しいスケジュールだったりする。お気の毒です…。
中国人観光客は自撮りの棒を後ろから掲げて撮影している。あっちもこっちも
手を上に伸ばしてスマホで撮影。大変だ、こりゃ。
大混雑の中、20分くらいだったでしょうか。ようやく一番前に到着です。
やや左上に五稜郭タワーが見えます。
ロープウェイはなんと150人乗りになっていて、数分おきにピストン輸送。これは
儲かってるよ、ホント。「三大夜景」と呼ばれている、残りふたつの長崎と神戸は、
ガーラガラだったけどなあ。函館ひとり勝ち。
しばらく前にリニューアルされて広くなった展望台も大混雑なので、なんだか10倍に
広げる計画があるとか?
ヒーコラ降りてまいりました。横の駐車場がこうだよ。ひっきりなしにバスが到着。
私は歩いて街に向かいました。あれだけの大混雑だったというのに、歩いているのは
だ~れもいません。そういうものか~。
ここは函館どっく。路面電車の終点です。こんどはここからベイエリアを突っ切って
街の中心地へ向かいます。なにせ一日券買ったんだからねェ。
始発なのでガラガラ^^ 私はバスよりも路面電車のほうが好きです。ガタゴトね^^
というわけで、ここは棒二森屋のレストラン。昔ながらの「お好み食堂」です。
しかし2年前から進化していた!灰皿の置いてある喫煙席がなくなっている!
その名も「昔ながらの醤油ラーメン」。麩が入っているのが北海道かー。そういえば、
小樽の鮨屋で会った麩の会社の社長さん、元気にしてるのかなー。
ここに来ると、チョコレートパフェを食べないとね(^益^)b
ウェイトレスのお嬢さん、ちゃんと「食後ですね」、「お持ちしてもいいですか」と
気をきかせてくれました^^
ベント―売り場に、「北海道新幹線開業記念 北斗七星弁当」が並んでいました。
高くね? 量も少ない気がするが…。子供にねだられたら買うしかないけどね~^^;
おおっ。景気よく並べちゃいるが、売れ残らねえか~。
というわけで、昼の散歩も終わり、ホテルに帰ってまた風呂のフルコースであります。
いま振り返ってみると、テキトーに路面電車に乗って終点まで行き、また乗って
駅まで行ってラーメンを食い、そして帰ってきただけの一日だったかー。
まあいい。一日券を買ったので、夜にはまた路面電車に乗って松風町にくり出すぞ。
この日は天気があまり良くなかった。函館山に登るのも見合わせる。では路面電車の
一日券でも買って、あちこち行ってみようか。
函館のマンホールはイカですか~。
さてホテルのあるベイエリアから路面電車に乗ります。路線は「人」の字のように
なっていて、ちょうどホテルがあるのは、その真ん中の分岐点の位置、十字街です。
人の字の上のほうは函館駅方面。分岐している片方は、以前に行ったことのある
立待岬方面の「谷地頭」行き、もう一方は「函館どっく」行き。どうやら順番に
来るようです。どちらでも来たほうに乗ろうかと思っていたら、どっく行きでした。
乗っていたら、突然吹雪になる!東京だと降った雪は地面であっという間に溶けて
なくなりますが、ここは北国だけに、地面に落ちても溶けないで、それが強風に
乗って激しく舞うのです。上から降ってくるのと下で舞うのとでどんどん増える。
視界もなくなるようなこの猛吹雪を動画で撮影しようと思っていたら、10分あまり
しか路面電車に乗っていなかったのに、到着したらやんでしまいました。。。
というわけで函館どっくです。ま、特に何もないところで、強風で寒い。
観光客は全然おりません。しばらくしたら、西洋人の御家族がぶらぶらとやって
きました。向こうに見える函館山にはアジアからの観光客がうじゃうじゃいますが、
こういうところには西洋人、特にドイツ人とかがくるのです。何でかねえ。
すごく冷たい海風が吹きまくっていました。
なんで港町だと、こんなふうに片足をお決まりで乗っけるんでしょうかね(^益^)w
散歩していて目についた洋風の建物。窓が縦長で、おそらく部屋の天井は高いで
しょう。こじんまりした大きさも感じがいい。角がカーブしているのも素敵です。
しかし向こう側には日本風の蔵のような造りの建物。あちらは書庫とワインセラーに
いいなあ。こっちは書斎と。
おお、こちらも洋風。二階のバルコニーがおしゃれ。柱の上が丸くカーブしています。
散歩からホテルの部屋に帰り、風呂に入ってからくつろぐ。ラップトップのPCには
お気に入りのCDをだいぶ入れてありますが、ネットでジャズなどをBGMにして聞く。
ええのお(^益^)b
さて、夜になったので飲みに出動だ。日本酒が飲めるところは2ヵ所ほど知って
いますが、好きな店は駅のほうまで出ないとないのです。それは後日にとっておいて、
この日はすぐ近くにある金森倉庫のビヤホールに行くことにしました。
でっかくて、ホールにはたくさん人がいました。でも少々観光地っぽい所なので、
グループばっかり。ひとりで煙草を吸う、となるとカウンターを勧められた。
ご覧の通り、カウンターはとても長くて何人も座れるのですが、グループばかり
なのでだ~れも座ってない。ちとひとりは浮くなぁ~w(゜゜)w
まっしかたねえ。「あのひとりで座っている人、後ろ姿が素敵♪」なんて思われて
いるハズだ!と思うことにして、ご覧の「函館赤レンガビール」を飲む。その次は
「函館開拓使ビール」だ。こういう店だけに、アルバイトのお嬢さんたちは若くて
カワイイ。自分の店じゃないだけに、対応は「仕事」という感じだが。やはり仕事
というよりは、好きで自分の生きがいとしている居酒屋のババーとかおばちゃんの
ほうが、私には相性がいいような気がする。
ビヤホールは、左から3つ目か4つ目くらいの倉庫にあるのです。
天気はよく、函館山の山頂がよく見えています。おそらくはまだ観光客がたくさん
いることだろう。ロープウェイは遅くまで休むことなくピストン輸送。画像では、
左のほうから赤いのと青い光がゴンドラなのです。
ぶらぶら歩いていたら、こんなソーセージ屋さんがありました。カール・レイモン
というブランドだそうです。右のほうに銅像がありますね。なんか彼の歴史展示館も
あるというので、ちょっと見に行きました。
1階はハムやソーセージの売り場、そしてカジュアルなレストランになっていました。
早速2階の展示を見に行きました。
ふむふむ。むかしの商品や広告。
実際に使っていた機械ですね。
面白かったのは、ずらりと並んだパネルに書いてあった、カール・レイモンの伝記、
なかでも日本人の奥さんとの恋バナでした~(^益^)w
カール・レイモンは、1894年にオーストリア=ハンガリー帝国に属するボヘミア王国(現在のチェコ)で4代続く食肉加工職人の家庭に生まれ、8歳頃から修行を開始、14歳で本格的な食肉加工マイスター教育課程に入って家業を継ぎ、ドイツ、アメリカ、フランス、ノルウェーなどで修行をしました。若い頃からコスモポリタンですね。のちに欧州統合の運動にも傾倒したそうです。
1919年、アメリカからの帰国途中に日本に立ち寄り、函館で滞在していた旅館の娘、勝田コウさんと出会い、恋に落ちたと~♪ しかし当時は国際結婚なんて当然反対されるので、なんと駆け落ちして中国の天津で落ち合う。当時18歳のコウさん、よくまあひとりで!下関から釜山に船で渡り、そこから中国まで行ったそうです。再会は劇的で、ドラマチックだったでしょう。ドイツへの旅券をもらうために二人で上海に行きましたが、なかなか許可がおりずに苦労。なんとか船でフランスのマルセイユに渡る。すごい旅ですねェ。そしてレイモンの故郷、カルルスバードで結婚。そこでは店は繁盛しましたが、次第に反日感情が高まってうまくゆかず、日本行きを決心。その資金を作るためにシカゴの工場で半年働いたとか。2年後に函館に戻り、ようやくまたハムやソーセージの店と工場を開業しました。
当時日本人にはハムやソーセージを食べる習慣がなかったので、全然売れない。「馬のしっぽみたい」などと言われたそうです。しかたなく東京、横浜、神戸、京都といった都市のホテルへ売り込んで頑張る。さらに、酪農・畜産を広めてハムやソーセージの工場を作れば、北海道の食は本土に頼らなくても自給自足できるんだぞ、という壮大な計画を北海道庁に進言。しかし受け入れられない。その後、日本が植民地にしていた中国大陸の満州国で、畜産指導に尽力。
第二次世界大戦が始まる前に函館に帰るが、日本政府に工場を強制買収される。外人ですからね。ひどいです。工場がうまくいっているときには、それを満州で指導してほしいと利用したくせに、その仕事が終わって帰国したら工場を取り上げるのですから。レイモンは特高に監視され、「敵国のスパイ」と迫害されたのです。それから10年して、自宅を改造して細々と製造を再開。つらかったでしょう。
しかし戦後に彼の功績は認められ、数々の賞を受けて、彼の作ったハムやソーセージは立派なブランドになったのです。
おおお、コウさん、素敵な女性ですねー。
コウさんは20世紀の始まった1901年生まれで、1997年まで、つまり97歳まで
生きてらした。直接お会いして、駆け落ちするための天津への旅やら、様々な
海外生活、波乱万丈の人生のお話を聞きたかったなぁ~~。