ふつう文学をやっていると、文学者はモラルや制度なりを踏み破ることを快感とする人種の様におもわれてくるけれども、実際に会議などで正義とかモラルをいいがちなのも文学者なのではなかろうか?不思議である。いや、不思議でも何でもない。
実際、主観性の限界が常に枷として目にちらつく──つまり「反省」状態がデフォルトである──文学なんかより、主観性からはなれたと称する数字や図式をつかった学問の方が、自分のために巧妙にふるまえる、という事情があるのではないか。そんな気がする出来事が多い。公共性や客観性を装った自己顕示みたいな行動のことだ。で、きまってそういう人間に限って常識を疑う、というのが持論である。
何故か分からんが、文学者の本能(笑)は、こういうタイプをたぶんだめだなと告げる。――我ながら道学者すれすれの感覚に嫌気がさしてくる。しかし、人文科学の特徴が、一種の禁止事項――「法」と関係しているのは自明の理なのだ。
私がみたところ、日本の近代文学は上記のタイプをきちんと描いていないと思う。愚鈍な父や母、怪物の様な資本家や同志、宇宙人のような恋人を描いている場合ではなかったのではないか?
実際、主観性の限界が常に枷として目にちらつく──つまり「反省」状態がデフォルトである──文学なんかより、主観性からはなれたと称する数字や図式をつかった学問の方が、自分のために巧妙にふるまえる、という事情があるのではないか。そんな気がする出来事が多い。公共性や客観性を装った自己顕示みたいな行動のことだ。で、きまってそういう人間に限って常識を疑う、というのが持論である。
何故か分からんが、文学者の本能(笑)は、こういうタイプをたぶんだめだなと告げる。――我ながら道学者すれすれの感覚に嫌気がさしてくる。しかし、人文科学の特徴が、一種の禁止事項――「法」と関係しているのは自明の理なのだ。
私がみたところ、日本の近代文学は上記のタイプをきちんと描いていないと思う。愚鈍な父や母、怪物の様な資本家や同志、宇宙人のような恋人を描いている場合ではなかったのではないか?