★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

高知でディアレクティーク、アンド、ミスティク

2010-06-16 21:17:29 | 思想
用事があって高知に行ってきた。
そこである学者さん会った。まったく別の分野の、かなり年配の学者であるが、なかなか話が面白かった。
別分野との交流で刺激を受けたなどと、中学生のようなことをいう人間でなくてよかった。私の狭い経験でもこういう出会いはまれである。ときどき何も話をしないうちから「他分野の人とお話しすると気分が晴れる」だの「刺激を受けます~」とか開口一番切り出す学者もいる。非常にたちが悪いと言わざるを得ない。

私とその人がともに最近の学会に対して抱いている印象があった。いわば「アキレスと亀」現象である。(私がそういったら、それは比喩としては間違いだろうがイメージしやすいなあ~、といってくれたわ)論文作法の形式化と量産化で、研究者がアキレス化している。アキレスは年間論文数を多くしようとして、1ミリずつ何回も全力疾走する。しかも「おれは全力で先行研究追い越してるぞ!」と叫びながら。しかし、亀を絶対追い抜けない。亀は一歩(年間1本の論文)で2センチも動いてしまうんでね……。

やはり別分野でも同じ現象が起こっていたか……

あと、学者の教養の低下についてもだいたい同じ意見であった。論文を量産するためには、教養がない方がいいのだ。教養があると、例えば、おれの思いつきなんてどうせマルクスやフロイトが先に言ってしまっているにちがいない、と怯えたあげく、黴くさい全集を引っ張り出さなくてはならない。それではテンポがわるくてしょうがないからだ。明らかに最近の博士論文指導などでは「よぶんな本を読むな」と指導しているはずである、と彼は言った。とすると私は幸運だった。花田×輝なんかやめて他を読め、と言い続けられていたからだ。しかし急に言われても教養というものは地層のようなものなので、焦って砂を積んでも風で吹き飛んでしまうことがある。

私は最後にこう言ってみた。「ドストエフスキーが小説で言ってしまっていることを、我々がもっともらしく言い換える必要はあるでしょうか?ときどき、必要はないとおもうんですけども。」

「確かに必要はない。しかし言っておかないと真実が弁証法的に証明されてきたことが、未来の人に分からない。ドストエフスキーの勝利が確実だとしても。」

「我々は生け贄ですか……」

「我々ではなく、文学研究者が……」

最後の会話は、あるいは私の自問自答だったかもしれない。今日の高知は暑かったのでね……。

夕方に、横山隆一記念まんが館に行ってきた。西原理恵子の展覧会目当てだったのに7月からだった。