★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

がんばれドラゴンズ。そして「巨人」である権利をくじ引きで決めたらどうか

2010-06-10 01:28:04 | 日記
私はほとんどスポーツに興味がないし、実際にやってもおらぬ。私がなぜ浅田彰が好きかといえば、彼がちゃんと思想書の中で「体だけが丈夫な頭の悪い奴ら」とかなんとか批判したことである。ここまでちゃんと体育会系をけなしたやつはおるまい。コンプレックスというのはたちの悪いもので、根っからの文弱にかぎって、坂口安吾はスポーツが出来たからすごいとか、安部公房は100メートルの記録保持者だったとか、柄谷行人はバスケがうまいとか、何を言いたいのか分からんが、そんなことを意味ありげに言ったりするのである。

とはいえ、私も中日ドラゴンズだけは気になって仕方がない。父親が猛烈なファンだからである。

一応ありふれたことをいっておくと、――日本でどの野球チームのファンになるかということは、その人の家族とか地域とか国家がおびる意味、つまりコミュニティのあり方となんらかの関係がある。例えば、巨人は戦後復興する日本を象徴し、中日は昔はともかく今はうだつの上がらぬ名古屋を象徴し、阪神は関東に主導権を握られ続ける独自な関西文化を象徴し、広島はもちろん……を暗黙に象徴させられることで、そこに住んでいる人をファンというコミュニティ形成へと駆り立てる、あるいは形成を強制される。そこに努力やら、憎まれ役やら、反体制やら、悲惨の共有などの観念がくっついたりするとそれが加速する。と、思っているのは私ぐらいの世代までの男と、新聞記者だけで、もうただのスポーツになりつつあるのだろうけども……。

というわけ?で、中日の勝敗に一喜一憂する父に別段反感も持たなかった私も中日だけは気になる。

落合監督になって中日は結構強い。
特に2004年と2006年は強かった。2007年には53年ぶりの日本一になった。
ただ、最近なんとなく三位あたりをふらつくようになってきた。
なぜか?

よくわからんのだが、指導者の影響力というのは、我々がふつう認識するよりも意外に強いものである。これが教員をやってきた私の感想である。予想以上に指導者の存在そのものを模倣するんだよ。指導される側は……。

年々、中日の選手は落合監督に似てきてるんではないかな……。落合監督の能力や意識ではなく結果的に陥ってしまう存在様態に。落合監督が個人タイトルを軒並みかっさらっていた選手時代、彼のいたチームは毎年優勝しておったであろうか。そんなことはないんだわな……。個人がタイトルを取っても優勝できない。中日がそんなチームになりつつあるような気がするのは私だけであろうか。

しかし巨人がまた優勝するのはつまらない。巨人優勝というだけで、他のなんか意味がいろいろくっついてくる感じがするからいやじゃの。巨人の4連覇を阻止するための方策を考えたいのう~。

というわけで、毎年巨人というチーム名をくじ引きで決めたらいいんじゃないかな?言葉と実体の関係が恣意的なのは人文科学の常識だ。

「巨人ブラウン監督、またベース投げで退場!」
「巨人の落合監督、また空気読まずに岩瀬を投入」
「巨人のブランコ、公園のブランコで子どもを遊ばす」
「巨人の山本昌投手、60歳で完全試合達成!試合後に実はロボットであることを告白!」
「巨人奇蹟の30連勝!興奮した橋下知事が道頓堀に100億円を投げ込んだところ、そこに群がる巨人ファンがまるでゴミのようだ!」
「巨人また最下位!蓮舫大臣、2位以下のホーム球場の仕分けを宣言、特に神宮球場は明日核爆弾で粉砕の模様!」

こんな記事を見てみたいものだ。

とりあえずがんばれドラゴンズ!父のために(笑)