★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

三井甲之を歌わせる

2010-06-04 01:21:56 | 文学
昨日ブログでも書いた三井甲之が気になって、いくつかの和歌をみてみたが、はあ、という感じなので、片山杜秀氏の三井論まで読んでみる。三井というのは、原理日本社のおじさんぐらいしか把握してなかったのだが、さすが片山氏、やはり写生論までさかのぼって考えていた。もとアララギだからなあ。

まあ、片山氏のような論法は、三井の意識に忠実であろうとすることによって、三井の中でさえ物切れ状態だった彼の個人史を、イデオロギーの流れみたいに考えてしまうことでもある。そこに長所と欠点が存する。

私も気をつけねば。

しかしさすがナクソスのCDなどで日本の戦前の作曲家を墓場から復活させた片山氏、三井を復活させておる。とはいえ、その復活とは、キリストのようにはいかない。骨と塵になってしまった死体を生きてるように見せなければいけないのだから。勢い、骸骨を糸でつなげて持ち上げ、浄瑠璃の如く背後から操らなければならぬ。時には大げさにしゃべったり歌ったりすることも必要だ。もちろん猛烈に音楽好きな片山氏は自分で歌ってしまうのだ。その方が観客がいる感じがして生きてる感じもするしね。そんなときは機関銃でも持って「かいかん」とか言いつつ観客に撃ちまくってるイメージをステージ上で思い描くことさえ不可能とは言えない。

私もその気分はわかる。しかし、どちらかというと私は歌うことを拒否した研究者の方に親しみを持つ。