井伏鱒二の「おらんだ傳法金水」(昭8)を読む。卒業論文で井伏をやる学生がいるのでときどきつきあって読んでいるのである。
幕末のころ、酒場「金水」での、志士未満の馬鹿な学生たちの罵りあいから、とりあえず二人の決闘が生じ、茶坊主の「やめてくれ」(だったかな?)というかけ声とともに本物の斬り合いになってしまう。茶坊主も女給もあっさり殺される。単なる人殺しの誕生である。
このような――、ああ~ありそうだなあ~という感じを、ユーモアといったり、関係論的な主体とかなんとかいったりしないで、なんとか文学的に説明出来ないものか。と、考えるふりはしてみるものの、読者に疑問を残さないようにクッションを最後に置いてあげるのが井伏である、私も井伏を読んだあと、あんまりものを考える気分にならない。この作品の最後の一文は不必要だと思うのだ。ない方がある種の読者は、この話を現代に重ねて考えると思うのであるが……。
読者が信用できないのだな……井伏は。しかし「読者」なんてどうでもいいじゃん、と思うけれども。日本浪曼派も、読者の反響が~読者が~、と言っている。うるせえよ。
幕末のころ、酒場「金水」での、志士未満の馬鹿な学生たちの罵りあいから、とりあえず二人の決闘が生じ、茶坊主の「やめてくれ」(だったかな?)というかけ声とともに本物の斬り合いになってしまう。茶坊主も女給もあっさり殺される。単なる人殺しの誕生である。
このような――、ああ~ありそうだなあ~という感じを、ユーモアといったり、関係論的な主体とかなんとかいったりしないで、なんとか文学的に説明出来ないものか。と、考えるふりはしてみるものの、読者に疑問を残さないようにクッションを最後に置いてあげるのが井伏である、私も井伏を読んだあと、あんまりものを考える気分にならない。この作品の最後の一文は不必要だと思うのだ。ない方がある種の読者は、この話を現代に重ねて考えると思うのであるが……。
読者が信用できないのだな……井伏は。しかし「読者」なんてどうでもいいじゃん、と思うけれども。日本浪曼派も、読者の反響が~読者が~、と言っている。うるせえよ。