★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

私が脳溢血で死んでも

2010-06-12 14:57:57 | 大学
赴任したときに驚いたのは、「ともに生きる力」とか「協働」とか「教育ではなく支援」とか「感動の共有」とか、「コミュニケーション能力」とか「コラボ」とか「学生の利益を優先」とか「連携」とか、他にもあげればきりがないが、どこぞのファシスト(というより、戦時中のソ連型と疑われたエリート役人である。)がしゃべっているのかと疑う言葉がなんの躊躇もなく発話され飛び交っていたことである。そもそもindividualism がないところで、人間のつながりを強制するこんな空言が過剰に流通するのは自分たちに合わせて行動しないと仲間から追い出すよ、というメッセージが発せられているとしか思えない。日本に限ったことではなかろうが、totalitarianismというのは頭の×そうな言葉が流通してしまうことによってなされる。反抗すれば何をされるか分からないから、死んだふりするしかなくなるのである。

いまでも私は上記の言葉をきくと虫酸が走るので、私に会った方は気をつけてしゃべった方がいいです、わしゃいつ脳溢血で倒れるか分からんよ……。

既に述べたように、上の寒いせりふはすべて同調圧力を後押しする言葉である。つまり、こういう言葉にホイホイついて行っている人間は、絶対にこそこそいじめをやるタイプであって、赴任当初はたぶんそうだな、と思っていただけだけど、いまは賭けてもいい。自分で考える自由より連携によるいじめの快感を取る連中が次々に教員になってよいのであろうか。よいはずがない。