★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

わが国学に絶望した、でも我々はほとんど神であるぞ、と。

2010-06-28 22:26:58 | 文学
藤田徳太郎の『わが国学』(昭17)をぱらぱらめくった。私は「国文学」を「日本語文学」に変えてナショナリスティックな問題に一石を投じたと勘違いするようなナルシズムには虫酸が走るが、一方、この本みたいなのが、勝手に国文学を代表しがちであるという現実にも同じくらい虫酸が走る者である。

好きな勤王の和歌に浸り興奮するのはまあいいのだが、戦に負けたあと、どういう体たらくになるかちょっとでも考えないのだろうか?一応博学の国文学者なのになぜ我が国の平凡な現実に対して想像力が働かないのだろうか。

とはいえ、こういう直情的な人より、上手く立ち回ればいいやと思っている人間たちの方が遙かに多かったであろうことを考えると、日本は45年にもう少しきちんと滅びるべきだったのではないかと思う。

昨日は鈴木清の「監房細胞」、今日は藤田徳太郎の「わが国学」。宿敵かもしれぬ本を読みつつ、私の頭はさほど混乱もせず……

……こうして、日本の文化は、更に重く斑模様を更に複雑にしてゆくのであった。がんばれにっぽん……

追記)イングランドは同点ゴールを認められず、ドイツにずるずると負けた。考えてみるとおかしいのだ。我々テレビ視聴者は、上空から、またあるときには、審判よりも近くでサッカーボールを見ている。我々はほとんど神であるぞ、と。