

能登殿、其処退き候へ矢面の雑人原、とて差し詰め引き詰め散々に射給へば矢庭に鎧武者十余騎ばかり射落さる、中にも真先に進んだる奥州佐藤三郎兵衛嗣信は弓手の肩を馬手の脇へつつと射抜かれて暫しも堪らず馬より倒にどうと落つ。能登殿の童に菊王丸といふ大力の剛の者萌黄威の腹巻に三枚甲の緒を締め打物の鞘を外いて嗣信が首を取らんと飛んで懸かるを、忠信傍にありけるが兄が首を取らせじと十三束三伏よつ引いてひやうと放つ。菊王丸が草摺の外れ彼方へつつと射ぬかれて犬居に倒れぬ。能登守これを見給ひて左の手には弓を持ち右の手にて菊王丸を掴んで舟へからりと投げ入らる。敵に首は取られねども痛手なればや死ににけり。
源氏軍の佐藤嗣信を、平教経(能登殿)が射貫いた。この人は清盛の甥である。で、教経の雑用係であった菊王丸という怪力少年(18?)が嗣信の首を取ろうと飛びかかると、嗣信の弟・忠信がそうさせじとこれを射貫いた。
この佐藤嗣信の墓は、安徳天皇社のちょっと北の方にあるのだが行きそびれた。ちょうど安徳天皇社を真ん中に合戦のあった海にむかって鳥が羽を広げるように左手に佐藤の墓、右手に菊王丸の墓がある。平家物語によると、佐藤嗣信は、義経を狙った平教経の矢にあたって死んだ。彼は奥州から義経についてきていた人物で、討たれても簡単にはくたばらず、ベルディのオペラなら軽く10分程度は、義経の胸の中で歌っていたでもあろう。
就中に、 『源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひける者、讃岐国八島のいそにて、主の御命にかはり奉ッてうたれにけり』と、末代の物語に申されむ事こそ、弓矢とる身には今生の面目、冥途の思出にて候へ」
これに比べると「犬居」の姿勢で討たれてしまった菊王丸の哀れさよ。能登殿は咄嗟に右手で菊王丸を摑んで舟のなかに放り投げる。こういう、死ぬまでの二人のコントラストが劇的にできている「平家物語」は、もちろん勝者と敗者の二者に死者が跨がっているからそうなっているのである。事実はどうであろうと、地元の人々は、佐藤殿も菊王丸も墓をつくらざるを得まい。その間に安徳天皇をまつりながら。天皇は、死者たちを跨ぐ要の死者である。