★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ジャン・リュック・ゴダール死去

2022-09-13 23:20:27 | 映画


今日は、ヤクルトの村上が五五号を打ったりしたが、一番のニュースは、ゴダールがなくなったというあれである。エリザベスや安倍が文化にとって重大ではあっても、ゴダールみたいな模倣者を呼び寄せるごきぶりホイホイ的な機能はなかった。前者がバルサン的な存在であるのと対照的である。

わたくしも文系思春期人の端くれとして、ゴダールの主要な作品は、大学院時代までにはだいたい観た。一番すごいのは『映画史』のような気がするが、体調がよいときにしか観返す気になれない。ゴダールの本性は、美女に吸い寄せられてしまう中学一年生みたいなところにあって、あまりに感性がプラトニックなので忘れがちであるが、初期思春期の頭が猿状態の面白さを非常に色濃く残している。大きく物語が展開しようとすると、流行歌を歌ってやめてしまうみたいなところである。

とにかく、ゴダールの映画には、この世の欲望を超越したようなものすごい美女が映っているのですごい。これほどまでに美女をプラトニックラブ的に撮れるのは完全に異常である。アンナ・カリーナの意味不明なウィンクをみたければゴダールを見るしかない――「女は女である」。処女懐胎を描いた「こんにちは、マリア」、あれはいかん、けしからんにも程がある。(正直、ゴダールを十回以上見たのはこれだけ

「勝手にしやがれ」もやっぱりかっこいい映画であったが、ヒロインがおなじということもあるが、これは「悲しみよこんにちは」を喰ってしまう野蛮な映画であった。おかげで、セシルカットはゴダールのヒロインから流行っていったという歴史修正を授業中行ってしまったことを懺悔します。『映画史』をとったことからしても、彼の映画は映画史の構築であり映画批評である側面が強い。それが、彼の若さで時々美女批評になってしまうことがあるだけであった。

生を批評することは物語を拒むものである。ウルピッタの『不敗の条件』は、保田與重郎の「木曽冠者」論でセンチメンタルに閉められているわけだが、田舎もんはローマ生まれのウルピッタ、奈良生まれの保田らのためのカンフル剤ではない。木曽義仲は別に偉大な敗北をしたわけではなく、殺されたのであって、もし木曽義仲が巨大なロケットを持っていたら、ローマも奈良京都の文化も灰になっているのだ。死が小さいから多数の生が生き残るのである。

しかしまあ確かに、保田的に、死が文化を生にするというのもわからなくはないのだ。宮谷一彦も多くの人に忘れ去られていたのに彼が死んだら思い出したし、ゴダールもこれからまたみんなでみるのであろう。生きている生は文化にとって邪魔だみたいな感覚はいやらしいけど我々の中にある。しかし、物を創り出す者はそんなことを考えている訳ではない。生の批評を、死に至った批評として読んでしまう「文化享受者」たちばかりになった世界は退屈そのものであろう。

ゴダールは、その意味から言うと、我々のような享受者と義仲みたいな奴の中間にはまり込んだところがあったのではなかろうかと思う。