然も水論は。正保年中。六月はじめつかたの事なるに。両村の大勢。千貫樋にむらがり。庄屋とし寄。一命を捨て。あらそひして。今ぞあぶなき折ふし。日の照最中に。ひとつの太鼓なり。黒雲まいさがつて。赤ふどしをかきくる。火神鳴の来て。里人に申は。先しづまつて聞たまへ。ひさしく雨をふらさずして。かく里々の。難義は。我々中間の業也。此程は。水神鳴ども。若げにて。夜ばい星にたはぶれ。あたら水をへらして。おもひながらの日照也。おのおの手作の。午房をおくられたらば。追付雨を請合と申。それこそやすき事なれと。あまた遣しけるに。竜駒に壱駄つけて。天上して。其明の日より。はやしるしを見せて。ばらりばらりと。痳病けなるに。雨をふらしけるとぞ。
「神鳴の病中」は、諸国ばなしの中でも傑作のひとつだと思う。遺産相続の争いの中に刀に執心する奴がいて、それが水争いのときに爺さんか誰かが使ったなまくらで、人を切れなかったために裁かれずに助かったのだ、――という話が続き、なんの教訓だろう、と読者が油断していると、水争いの元凶である神鳴り様のお出ましである。仲間が夜這いをしすぎて腎虚になったので雨が降らないんだ、とくる。で、ごぼうをくれよというので民がごぼうをやると、淋病の小便のように少し降ったらしい。
太宰のような自意識が1ミリもない素晴らしい加速的な話である。
「加速して参ります」とかいう政治が悪事だけを加速させるのと、太宰の小説はにている。
もしここに平和という言葉があり、戦争という言葉がある。あるいはどんな言葉でもいい、一つの観念も政治的なスローガンであるうちはいいが、それが政府が強制した言葉になった場合、その政府が強制した言葉を我々が使わなければならない場合は、その言葉の意味内容というものは自由に変えられる。
――三島由紀夫「学生との対話」(早稲田)
上の部分は、早稲田での講演のポイントの一つだが、こういうのは当時の学生がいわなきゃいけなかった。三島こそが意味を変えてると。しかしそうじゃなかったので、いまや「対話」やら「SDGs」やらなにやらで、意味がスポイルされ変えられた言葉を強制されるはめになっている。要するに、言葉とは、比喩でもなんでも自意識がくっつき始めると、意味が逆にも何にでもなってしまう。それは文学の成立させる性質でもあるが、文学を殺す性質でもある。まずは、欲望だけに忠実な言葉がはかれなければならない。
さっき新聞が届いて、一面に「国葬反対」「保守性と宗教、底なしの夏」とででんとあって、ついお腹がへんな音立ててしまったが、『図書新聞』だった。こういうときのこういう新聞の言葉は生き生きしている。意味以外の意味がないからだ。我々はソ連の「プラウダ」(真実)という新聞を笑うけれども、「週刊実話」とか「週刊大衆」もたいがいプロレタリアート独裁的真実的な何かを感じるのであって、下ネタと同等の革命や擾乱の欲望を残しているからだ。週刊誌が唯一ジャーナリスティックになっているのは当然である。ほかの言葉たちは、もう何かの隠れ蓑にしかなっていない。
いまの自民党の堕落は、かかる言葉の堕落とも相即的である。かれらが明確な反共みたいな「思想」をもっていたらまだましなのである。いまは実際それもない。そもそも、自民党は成立事情からしても保守ではなく、「反共」政党だったからである。しかし、対立する共産主義をやつらは狂信的だ一種の宗教だとか言ってるうちに、みずからも、マルクス主義が敵視するところの「宗教」=「反共」みたいな意味の混淆を体現することになってしまったのだ。この混淆は錯乱をいみせず、むしろその自覚を疎外するのである。宗教はアヘンと変わらない。別に自分で吸ってるわけではないからアヘンだと気付かないアヘンである。