★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

経験とモノ

2022-09-23 23:06:59 | 文学


もともと生活環境がひと世代くらい遅れていたところに、古い世代を研究しているせいもあって、昭和初年代生まれぐらいのひとと馬が合っていたのだが、もはや彼らもだいたいいなくなり、若造臭がする戦後生まれは名誉教授となった。そして気がついたら、おれよりも年配な感じがする、大正生まれみたいなファシストたちが20歳ぐらい下から台頭し始めている。わたくしはやっと自分より年配であるような連中と一緒に生きているのだ。

わたしは昔から虚弱で喘息だったせいかあまり動かない人で、その意味で、同じような動きの老人たちと気があったのかもしれない。――とは思うが、そんなことはない。わたくしの信じるのは精神的経験のみである。

我々はほとんどそういう「経験」を経験しない。なぜかというと、その経験に対する意味を経験することが頭がいいことになっているからである。教育実習でも目撃するのは、テキストの「経験」を、一般的で、しかもまったく使えない原理(エッセイの書き方とか、意見の言い方)を置き換えてしまう授業ばかりで、つまらないこと限りない。つまらないというのは社交辞令で、ハッキリ申し上げて精神に対する暴力といってよいと思う。これは、文科省やある種の教育者の気が狂っているのはもちろん、社会のあり方の変化にも原因がある。例えば、メディアの発達やコンサートのある種の世俗化で忘れられがちであるが、音楽はそのほとんどが演奏する者自身の「経験」=楽しみにこそある。オーケストラのなかにいると、自分の音は下手すると自分でも少し聞こえないときがあるが、一緒に演奏している面白さがあるのでいいのである。それを聴衆の満足とかで相対化するのが頭がいいみたいな意見があるが、頭が悪いのはそういうことを言うやつである。

さっきスコアをみてて気付いたんだが、ショスタコービチの第7交響曲の最初の主題は、弦の裏?でファゴットが必死に演奏している。これは普通の再生装置だとほとんど聞こえてないが、当然ながら経験されている。しかし奏者ほどの経験は他の奏者はしていない。ショスタコービチの交響曲におけるファゴットの重要性は言うまでもないが、――大音量をほこる楽器群との関係で、演奏者は自分の音の意味を演奏中に考えるにちがいない。演奏はほとんど社会の経験に近いものだ。上で、「弦の裏?でファゴットが必死に演奏している」と述べたが、正確にはこの曲のファゴットは、弦に1小節遅れて入って来のだ。これにもおそらく意味がある。ファゴットは曲の中で孤独な者のようにみえるが、孤独な者もあわてて大勢について行くときがある。

彼塚をほるに。初めのしやれかうべなき事。不思義ながらよもやこたで置べきかと。心をつくせし甲斐なく。判八も又。かへり打にあいぬ。

「因果の抜け穴」で、敵討ちに失敗した親子がいて、子は捉えられた親の首をきり取って逃げた。首を埋めようとすると、殺された兄のしゃれこうべが出てきた。で、前世にてあの家の8人を殺したことがあったので、因果だったのだ、と語る。因果が明らかになった以上、その生き残った子も最終的に返り討ちにあって死んだ。

ショスタコービチの世界では、こういう因果は描けない。しかし、西鶴には因果みたいな『あるかないのか』の世界ではない、主題と主題の絡まり合いみたいなものが描けない気がする。交響曲は二項対立の世界であるにもかかわらず、二項のかたちによっては調和がありうるのだという不思議が語られている気がする。西洋音楽は、そういう調和を見捨ててしまったが、それを夢みた記憶が残っている。二項それぞれが豊かな「経験」でありうる希望がある。日本では、まだ二項がモノ化して同一化しがちなのである。しゃれこうべの同一性みたいなものである。