吉本隆明の大学紛争のころの時評みたいなものをよむと、他人の公的なふりをした私的感情をくさすのはうまいが、自分のそれをうまいこと対象化できない。しかしそういうタイプはつい自分を論理で追いつめてしまいがちで書けなくなってしまうのだが、このひとはどんどん書いてしまう。なにか文章から溶け出すへんなものがある。論理を強調しそれを鎧としてつかいながら、鎧自体が溶け出して次のちがう鎧になっている。普通は越境だとかになってしまうんだが、この人の場合は何かが溶けてしまう感じだ。溶けないのは、彼の生身である。
知的にも倫理的にもインテリや知的大衆の溶けてゆく姿が、彼にはよくみえていたに違いないが、それは自分の姿でもあった。
吉本を浴びた新左(右)翼たちはともかく、その下の世代はその溶け出す知性とはちがったものに向かった。我々の世代である。こいつらは何か溶け出すのをやめた代わりに、自分の皮を纏い続ける、マトリョーシュカみたいな反省する世代である。――ヒロシとか大久保佳代子とかマツコデラックスだとか、前田智徳だとか元木大介とかどこかしら笑いによって――自虐と悲劇性に伴って自分を支えている。最近は、東浩紀氏なんかもそんな雰囲気を纏いだしている。同世代の英雄たちには頑張っていただきたい。
「いや、こはいんだ。京都の人たちは軽薄で、口が悪い。そのむかしの木曾殿のれいもある事だ。将軍家といふ名ばかり立派だが、京の御所の御儀式の作法一つにもへどもどとまごつき、ずんぐりむつつりした田舎者、言葉は関東訛りと来てゐるし、それに叔父上は、あばたです、あばた将軍と、すぐに言はれる。」
「おやめなさいませ。将軍家は微塵もそんな事をお気にしてはいらつしやらない。失礼ながら、禅師さまとはちがひます。」
「さうですか。将軍家が気にしてゐなくたつて、人から見れば、あばたはあばただ。祖父の故右大将だつて、頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにもう、大頭将軍といふ有難くもないお名前を頂戴して、あんな下賤の和卿などにさへいい加減にあしらはれて贈り物をつつかへされたり、さんざん赤恥をかかされてゐるんだ。京都といふのは、そんないやなところなのです。
――太宰治「右大臣実朝」
最近、吉本の実朝論を読み直したが、昔読んだときによりもあまり面白くはなかった。そこには、上のようなせりふがないからだ。吉本の詩も批評も、このようなせりふを抑圧している。だからその抑鬱感が「バカ」とか「死ね」みたいな罵詈雑言となってしまう。詩というのは、ギリシャの昔から案外公的なものなのである。これに比べて、小説の方が私的である。吉本が小説を書かないのは当然である。私的なものを抑圧しようとしているからである。学生運動のなかにはそういう抑圧と欲望があったと思う。だから彼らは就職による転向も違和感なくやってのけるのである。