二郎兵衛は。そろそろ庭にをりて。天目ひしやくを取て。息つぎの水呑ありさま。舌の音して。人にすこしも替る事なし。其跡はあつもりの。若衆人形にとりつき。またはおやま人形にしなだれ。色々の事ども。宵のこはさやみて。おかしくなりぬ。
「形は昼のまね」――、若衆人形やおやま人形にしなだれかかったりしている人間を操っていたのは狸であった。もっとも浄瑠璃を操っている人間が狸など及ばない怖ろしいものであることは明らかである。
浄瑠璃の黒子にしろ狸にしろ、人間には精神があることを示すものであった。ただの人間ではそれを示せないのだ。同じ趣味や好みを持つ集団にいくと、かならずその集団のもつ「思想」?に共鳴出来ずに離れてしまうのを繰り返す人間がいる。たいがいわたしもそうで、こういう人間は思想的共鳴に免疫がなく、危ない存在であることは言えると思うが、――その「思想」とやらが、人間には属しない何かであることは気付いている。だから、これに対しては「精神」で対抗する他はないと思う。こういう人間はいつも歴史上いたと思う。
この「精神」は制度にはならない。わたくしが大学院に行ったのは、やっと学校制度から遁れて遊んだり修行できると思ったからというのが大きい。今みたいに学校みたいになってる状態だったら行ってない。行ってみたら、やっぱり学校だったわけだが。はじめは、ほんとの話、学者になるかどうかはあんまり考えてなかったのだが、就職活動としての学問が始まってからほんと調子狂っちゃって、それ以来体調が悪い。わたくしを支えていたのは「精神」しかない。当然であるが、博士何人出すみたいな目標がうまいこと達成されるときは、その計画によって目標が達成出来たように錯覚されるが、そうではない部分からエネルギーをもらっている場合が多く、案外計画制度がしっかりするより前に最盛期があって、そのあとは衰退の一途を辿る。こんなのはよくあることでそんな常識的な事態を忘れたやつが制度設計をやろうとしているのが狂ってる。実際のところ、いまの日本が全体主義的戦争すらできないのは、抵抗の「精神」すら存在していないからなのである。
昨日の夜から大江健三郎よんでいたんだが、わしはかなり影響を受けていたんだと判明した。そうか、長年読んでなかったけど、こういう息づかいがやってみたかったんだなと思った。いまはとても読みやすい文章だと思う。人文系の論文のセンスをきめているのは、その業界内じゃなく、大江みたいな「精神」的存在である場合がある。業界人が業界内のみで人格・学問形成を行う場合には事態が好転しているとは言えない。もうほんとはそれは「業界」ではなくなっているからである。大江健三郎の文章はリズムの力でたぶんそこかしこを削って成り立っており、その意味では和歌的かもしれない。むろん、大江は和歌ではないものを目指していたから和歌的なのである。