國中の色よき娘。十四より二五まで。いまだ男を持ぬをすぐりて。大踊のこしらへ。それはそれはまたあるまじき事也。其用意の。買物にまいつたと申。めしつれし者ども。何とやら磯くさく。かしら魚の尾なるもあり。螺のやうなるも有。萬の買物をもたせ出行時。あの國の女の。いたづらを皆々。見せましたい事じやといふ。
浦島は、たったひとりで竜宮へゆき、寂しく帰ってきた。晩年は寝覚ノ床で寂しく暮らした。――しかし、積極的に竜宮に人間を誘惑しようという悪辣なやつらもいる。こいつらは、いまでいえば、なんとかポイントで釣ろうとする奴であろう。まったくよのなか様々である。
SDGsというものに乗っかる人たちにも、昔からの地道な社会運動の人たちもいれば、この前アクティブラーニングとかいってたやつが同じ口調でそれを言っている、つまりいつもの人たちもいる。サルトルの言う、アンガージュマンというのに実存がかかっているというのは、飛び込むさきが理念ではなく人間の集団である限りは、その行為自体が必ずしも正しいわけではないからだ。持続可能性とかいうけど、お金持ち、貧乏人、卑怯な性格の人、ひとりも取り残さず持続するというのはいやである。むろん、上のやからはそういうことを狙っているわけで、正しさのルネッサンスを阻止しようという運動がSDGsでもあるのである。これは別にイジワルな見方でも何でもなく、あらゆる理念に関して起こっている人間的な事態である。
しかじかかように、わたくしは優しいリベラルなので、――うちの庭は生物多様性にみちている。おかげで、今年はわたくしのうえた大半の美しい植物が雑草ファシストによって栄養をたたれ殺されてゆきました。来年の手段はひとつ皆殺しである。
わたくしがリベラルなので、――うちの家の庭は生物多様性に満ちている。昨年から、イボ蛙たちのパラダイスと化している。当然蚊などの餌たちもたくさんいる。
1、蚊が俺の血を啜る
2、蚊を蛙が飲む
3、隣家の子どもたちが蛙たちと遊びたがっている。がっ時々庭に出てくるきたないおじさん(わたくし)が不気味(←イマココ
細が庭を芝生にしたがっている。生物多様性を維持するため、かかる画一主義には断固決然抗議していかなくてはならぬ。
わたくしの植えた百日草はことし、なぜか巨大化の一途を辿っている。のみならず、しらないうちに子孫をばら播いていたらしく、庭全体に勢力を広げつつある。花言葉は「不在の友を想う」であるが、どうみても根性は、友人不在の間に人妻を寝取る輩であろう。来年は、所定の位置以外に花開いた奴は姦通罪で殲滅する。上の「行末の宝船」でも、美少女の淫乱な何かを観に行った連中は、帰ってこなかった。竜宮で楽しくしたのではなく水死したのである。因果応報である。
林達夫の作庭記は正直なところちょっといい子ぶってると思う。