★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

人魂を叩くひと

2022-09-12 23:32:31 | 文学


東雅夫氏の『山怪実話大全』のなかには、題名だけみても木曽の話が二つ入っている。岡本綺堂の「木曽の怪物」にでてくる、でかい毛抜きを持った坊さんの話はよく知られている気がする。

山又山の奥ふかく分入ると、斯ういう不思議が毎々あるので、忌々しいから何うかして其の正体を見とどけて、一番退治して遣ろうと、仲間の者とも平生申合せているけれども、今に其の怪物の姿を見現わした者がないのは残念です。モウ一つ不思議なのは、これも二三年前の事、私が木曽の山の麓路を通ると、商人らしい風俗の旦那と手代二人が、木かげに立って珍らしそうに山を見あげているから、モシモシ何を御覧なさると近寄って尋ねると、旦那らしい人が山の上を指さして、アレ御覧なさい、アノ坊さんの担いでいる毛鑷の大きい事、実に珍らしいと云う。ハテ可怪な事をいうと思いながら、指さす方を見あげたが、私の眼には何物も見えない。扨は例の怪物だナと悟ったから、この畜生めッと直ぐに鉄砲を向けると、其の人は慌てて私の手を捉え、アアモシ飛だ事を為さる、アノ坊さんに怪我でも為せては大変ですと、無理に抑留める。

なんですぐにぶっ放したがるのかわけが分からない。この調子だと、兵十がごんを撃っちまったのなんか、まだ盗人見つけたり、という感情があっただけましというものだ。

もうひとつは、西丸震哉の「木曽御岳の人魂たち」である。西丸は、祖父の弟が島崎藤村という人であるが、西丸四方や島崎敏樹といった精神業理学のパイオニアを兄に持つ。自分は、食生態学者で登山、探検が大好き。幻覚やなにやらをいろいろみてしまう人である。考えてみると、藤村の千曲川のスケッチなんか、なにか他の物も見えてんじゃないかというところがあるし、精神病理学もむかしの「変態心理学」と無関係ではないから、この一族は見えない物をみるなにかでも持っていたのかもしれん。しかし、まあ、植物がそよそよ蠢いている情況というのは、なにかがいろいろ動いて見えるものだ。西丸の名前は、彼が震災のときに生まれたからと言われている。もう視界がぶれぶれの運命を背負っているようなものだ。

このまえも、わたくしは、実りの秋を迎えた田んぼのあぜ道で、地蔵がよちよち歩いているのを目撃した。

それはともかく、西丸の文章というのは非常にノリが軽いところがあり、当該の文章でも、「六根清浄、御山は繁盛、サアンゲサアンゲ」を「LOOK ON 少女、オヤマア、半嬢、産気、産気」とか思って苦笑したとか書いているが、こういうお人は、一回檜で殴ったほうがいい。さすれば人魂なんかみなくなる。

誰かがちゃんと教育しないもんだから、彼はちゃんと御嶽の山頂で人魂に出会っている。しかも非常に失礼だ。飯盒の底を人魂がすり抜けていったのでいらいらして、素手で叩きつけたら跳ね返った、などと言っている。

 翌日,ついに女の一メートル手前まで近寄ることができた。「お晩です」と声をかけても目も合わさずに知らん顔で海を見ている。「もしもし」と言いながら指で彼女の肩を思い切って突いてみたところ,指先は何の抵抗も感じず,同時に女も消え去ってしまった。そのとき初めて背筋がツーと冷えた。翌日,棍棒を手にまた一メートルのところまで近づいて,「君は幽霊かね。しゃべれるんなら返事しろや。黙ってるとぶんなぐるぞ。いいか,それ」と女に棍棒を振り下ろすと「ガツン!」と何もないコンクリート堤を叩きつけている。こちらの頭が狂ったのかと市立病院で徹底的に検査してもらったけれど,まったく正常とのこと。それからもちょくちょく女の姿を見かけたけれど,なるべくそばを通らないように別の道を通って帰っていた。

――「私の歩んだ道」(https://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/14/no14.html)


このひとは、何か不審な物に会うと、叩きたくなるようである。