★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

仏のような誘拐犯のような

2022-09-05 02:55:18 | 文学


北野のかた脇に。合羽のこはぜをして。其日をおくり。一生夢のごとく。草庵に独住。おとこあり。都なれば。萬の慰み事もあるに。此男はいまだ。西ひがしをも。しらぬ程の娘の子を集め。すける持あそび物を。こしらへ。是にうちまじりて。何のつみもなく。明暮たのしむに。後には新さいの川原と名付て。五町三町の子共。爰にあつまり。父母をもたづねず。あそべば親どもよろこび。佛のやうにぞ申ける。

「男地蔵」における、この仏のようで鬼のような、そして童女誘拐犯みたいな男が妙に無垢であるのは注目されてきたところであろう。宮澤照恵氏が、根本的に「天神信仰」に基づくことで男の造形が許されることになっているような事態を論じていた。われわれの文化における信仰とは何だろうと改めて思う次第だ。信仰によって、我々の変身が許される。いや、我々の日常の変質や転向なども、信仰によってうまいこと許されてきたのかもしれなかった。

天神は雷神というより子どもの守護神というかんじが今でもあるが、――確かに、子どもなら迷走や変節、変身は許されそうな気がする訳である。われわれの先祖たちは、子どもや子どもっぽい人物たちとの共存を永い間はかってきた。この歴史を無視するわけにはいかないような気がする。

われわれは子どもに対する理解を諦める時に、ついまわりの動物たちが、子どものように大人であることに気づき反省することを繰り返してきた気がする。西鶴の作品には、そういう動物たちと人間との関係と、人間社会の中の権力との関係が生々しい気もする。この話でも最後に奉行が出てきて、この男の素直な態度を目の当たりにすることになっている。「流石都の大ようなる事。おもひしられける。」――さすが京はのんびりしているな、というのが話の出した結論なのだが、いまいちわたくしはほんとにのんびりしているようには思えないのであった。のんびりしているように言えという、奉行の命令でも下っていた気がする。