★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

矛盾と統一

2022-09-10 23:44:14 | 文学


俄に佛檀の。ゐはいをくだき。佛事をやめて。精進を魚類にひき替て。祝言にいさめをなせば。たちまち其日より。物をいひ出し。此程の恥をかなしみ。親達のなげきを思ひやり。萬の心ざし。常にただ事なし。我無事すゑずゑは。出家になしてと。一筋におもひ定め。其後は親にも。一門にもあはず。かくて三年もすぎて。むかしに替らず。美女となりて。つねづね願ひ通り。十七の十月より。身を墨染の衣になし。嵐山の近なる里に。ひとつ庵をむすび。後の世をねがひける。またためしもなき。よみがへりぞかし。

火葬されたはずの娘が生きており、うばの夫によって背負われてよみがえっていったが、しゃべるようにはならなかった。で、両親が仏事をやめて精進を魚に変えたら、一気に元通りになっていった。しかし、いままでの恥を悲しんで出家の決意を固め、美女に戻ってからもちゃんと出家してしまった。

田中希生氏が『存在の歴史学』のなかで、儀式によって死ぬことが出来る天皇に対し、庶民は死ぬことの出来ない存在であったことを指摘していた。確かに、我々の文化は、あんまり死ぬことのできないお話が多いことは確かである。「源氏物語」も、主人公は死ぬことが出来ない。雲隠れがないことは偶然であるかもしれないが、あまりによくできた偶然である。光源氏は、天皇の子でありながら、母の庶民の半身のために天皇になれなかった。すなわち、崩御することができない。そのかわりに、似てるのか似てないのかわからない子孫たちの話が後に続いている。

万世一系の天皇?を支える意志は、こうして庶民の側が裏側から支えることになっているかもしれない。死なない現実の合理化である。

イギリスと我が国は、習慣的なものが法みたいな顔をしている点で、顕教的なのか密教的なのかの違いはあれど、ちょっと似ている。

王は死んだときにその本質を発揮する。天皇もそうであったときがあったが、生前退位がそれを不能にし、我々の一部が安倍氏の死を王の死として代替しようとしたが、いまはグローバリズムなんで、いろいろな死が次々ともたらされ、どうでもよくなりつつあるのか、そうではないのか。いずれにせよ、安倍の死は、普通の死ではなく、我々が戦後と冷戦構造の中でうまく処理できずに見ぬふりをしてきてしまった、宗教問題を我々の生に突きつけることになった。安倍氏は、そのある意味、正直な生によって、問題を顕在化した。しかし、これは明らかに、天皇のあり方ではなく、テロリズムのあり方だ。現実の生を中断させることで、問題のあり方を中断から顕在化させる、矛盾した現実という意味の爆発である。

対して、死去したエリザベス女王が今になって人気あるのは、もとAuxiliary Territorial Serviceで剣でケーキを切ったりする、軍の象徴でもあったこともてつだっている。うちの三種の神器はあくまでもどこいったのかしらない観念と化しているが、またイギリスを真似て、いつか天皇にも剣を持たせることもあるかも知れない。庶民を代表するかにみえたダイアナとの対立というのは、嫁姑問題ではなく、本質的問題だったのである。ダイアナの死は、女王のあり方を変えたと言われていて、まさに「統合の象徴」たるべく努力を可視的に行うようになったということらしい。しかし、それでも剣の象徴であることもその統合の一部なのだ。

安倍氏は矛盾、エリザベスは統合を意味する。実際どうであったかは関係なく、そういう意味の磁場を形成してしまったようだ。

表象的経験はいかに統一せられてあっても、必ず主観的所作に属し、純粋の経験とはいわれぬようにも見える。しかし表象的経験であっても、その統一が必然で自ら結合する時には我々はこれを純粋の経験と見なければならぬ、たとえば夢においてのように外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混同せられるのである。

――「善の研究」