★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Qu’est-ce que l’art? Prostitution.

2022-09-22 23:36:40 | 文学


信長公の。御前にての物語に。りやうじゆせんの。御池の蓮葉は。およそ一枚が。弐間四方ほどひらきて。此かほる風。心よく。此葉の上に。昼寝して涼む人あると。語りたまへば。信長笑せ給へば。和尚御つきの間に立たまひ。泪を流し。衣の袖をしぼりたまふを見て。只今殿の御笑ひあそばしけるを。口惜くおぼしめされけるかと。尋ね給へば。和尚ののたまひしは。信長公天下を御しりあそばす程の。御心入には。ちいさき事の思はれ。泪を洒すと。のたまひけるとて。

信長の野望と、二間四方の蓮の花とどちらが大きいのか。いまも、権力を前にしてこういうおべんちゃらを言う人間があとを絶たない。もっとも、この坊主は、信長が仏教に対してどんな態度に出るか恐れていたのかもしれず、笑われただけだけだったのでついほっとしてしまったのかも知れない。

そもそも、蓮の葉が大きいとか、竜がでかかった、みたいな話は、必ずしも殺伐とした話にはならない。そういえば、『ドラゴンボール』のアニメバージョンには、ピッコロ大魔王を倒した孫悟空が、牛魔王の娘チチと結婚して彼女の実家に帰ったら、火焔山が大爆発し、芭蕉扇で消そうとする話がくっついている。鳥山明の原作にはない話であり、孫悟空の新婚生活が甘く描かれているのだが、もともと「西遊記」のパロディである側面が復活し、悟空の人為的なパワーではどうにもならない世界が描かれているのであった。これは蓮の葉がでかいという類いである。しかし、ここでなんかしらんけれども、悟空夫妻の愛の力みたいなものが大きいという話にもなっているわけだ。

思うに、――戦争も火焔山が大爆発みたいなものであり、これを内戦に転化するとか言ったレーニンだがは、あまりにもピッコロ大魔王と孫悟空の戦いみたいに世の中を見ているのではないかと思う。戦争を内戦に転化できなかったところをみると、このまえの戦争は戦争ではなかったのであろう――か。そんなことはないであろう。あるいは、高度成長やバブルこそが内戦をもたらした意味で、経済戦争こそが戦争なのであろうか。そうでもないであろう。

原爆もインターネットも制御不能なものでやばいことは誰でも知ってるが、もともと人間は制御不能なものをつくりたがっているということも否定出来まい。そして、本当に少しつくってしまうのである。しかし、つくられたものは、我々を制御し始めるのだ。昔からそうなのである。斧や原爆だけではない。言葉もそうなのである。大学生の頃、菅谷規矩雄を読め読めと指導教官に言われて、頑張って読んだ。実際、文学研究者の一部に対しては吉本隆明よりも影響力があったくらいだ。吉本になく菅谷にあったのは、言葉を自然に帰すみたいな欲望だったと思う。ただ文章を追っていけば分かるような書き方をすべしみたいなのが幻想なのは、こういう人を読まされた人間には自明である。クリティカルリーディングみたいなのは御託宣みたいなものだ。コミュニケーションが決死の飛躍であることがわかるのに、解釈みたいなのが批判可能なほどに安定的でありうると思っているのが理解出来ない。言葉は、我々には制御不能であり、解釈や批評で制御しきることは出来ない。

同じ國文系の人間からみると、折口信夫というのは怪物的にすごい。しかしこの怪物みたいな感じが國文というやつの本性だと思う。これはわれわれの言語が、「國文」である場合、われわれの人間関係、社会、自分自身、思想と結びあった結果、我々には言葉に見えるものが、その実、その結びあい全体であるところの怪物と化しているからである。ここにしか我々の自我も社会もないが、それはよく分からない。結局、わたしが哲学に行かずに國文に行ったのは、この感覚が理由だなと思う。

昨今の、発達障害の話題は、その者がトラブルを起こしてしまった失言の具体性に欠けがちだが、わたくしはどちらかというと、その具体性だけにしか興味がない。その具体性への分析と原因追求抜きに現状の変革は無理であろう。おそらくその具体性には、我々の社会や思想との関係それ自体が実にさまざまにあらわれていて、――ことに空気が読めないみたいな把握で内容が看過されがちであるが、そんなことで済むはずがない。発達障害の問題を属人的に扱うのは、それが言葉を巡っている病気である限りムリなのである。

その意味で、ボードレールは、芸術が個人のものではないことをよく知っていたのではなかろうか。

Qu’est-ce que l’art? Prostitution.(芸術とは何か?「売春」)

――「火箭」