やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
理由はよく分からないが、人生と我が文化風土のおかげか、なんでこいつが、みたいなやつまでも和歌を詠んだ。この驚きが昔からあったんだろうと思う。それで、階級も性別も生死も何もかも超えてしまう気がしたんだろう。歌は心というより空気みたいなものなのではなかろうか。考えてみたら、歌は空気の震動で伝わってゆくので。。。
古典をずっと読んでいると、小林秀雄の「私小説論」というのはずいぶん無理をしている感じがしてくる。私小説は滅びないとか呪いを自分にかけるもんだから、逆に和歌は滅びなかったみたいなことも必要以上に呪いに見えてくるというのはあるんじゃないか。
考えてみると、好きな作家とか作品というのはあまり見返したり読み返したりしない傾向があって、ほんとに好きかどうかというのは怪しいと思う一方、たとえ「好き」みたいなものでも社会性への顧慮があるのであった。ドストエフスキーよりも卵焼きが優れているとは言わない。感情があるところ、社会に流れ出てしまうことを昔の人は知っていたのかも知れない。だから私小説なんて言わなかった。
先日亡くなったゴダールなんかがもたらしたものは、そのジャンプカットによる切断の美学ではなく、カットとカットに流れるもの、空気みたいなものである。ゴダールが日本人に感じさせたのは、なんかこう「いき」みたいなものではなかったであろうか。それを、エイゼンシュタインみたいにあからさまに俳句は前衛だみたいにやるのではなく、切断によってかえって流れる感情の生成をまつような世の中に対するある種の媚態がある。
一方で、その流れに抵抗し切断への欲望は、革命の欲望になり、いまは劣化して改革の欲望とかしている。思想や文学や教育の研究というのは、付け足し変形ブリコラージュみたいなあり方でゆっくり変化すべきで、おれたちの魂も生身も変化してねえのに急激に価値転倒とかしようとすると、それはあかんというものまで先行研究にないからという理由で復活する。研究とはパンドラの箱を開けないことであって、その逆をすることではない。社会への抵抗とのんびりした空気の読みあいみたいなのがこのジャンルには必要で、加速していいのは、悪人の地獄落ちだけである。だいたい、思想とか文学とか教育というのは、常に非常に不完全なものであって、それが書物の形をとろうとも「製品」というかたちにすら常になっていないことを自覚すべきである。そこに何らかの機械的な改善手段とか評価をもちこむと、その不完全さに対する認識がゆがんで、妙な変形が起こってしまう。教育に顕著な現象である。
もちろん、書物を読み切ることには、世界観の変容のマジックがあった。それを価値の生産とか価値転換とか言ってしまうからいけなかったのである。わたくしは、哲学者や宗教者たちがしばしば書物を残さないことに意味があることにようやく気付いた。