女の首両方より。袖にすがりてなげく。それこそやすき事なれども。何をかしるべに。申あぐべきたよりもなしと申せば。それにこそ證據あれと。年比に語る。是より南にあたつて。廣野あり。つねは木も草もなき所なり。我等を堀埋し後に。二またの玉柳のはへしなり。是しるしに頼むとの言葉も。つゆ絶て。夢は覚ける。不思義とおもひ。彼野にゆけば。其里へ集り。今までとは。見なれぬ柳とおどろく。さてはと此事。國王へ申あぐれば。あまたの人を遣はし。彼地を堀せ。見たまふに。爰にたがはず。女弐人むかし姿かはらず。くびおとしてありける。あらましそうもん仕れば。谷鉄が住家に。大勢みだれ入てからめ取。おのれが身より出ぬるさびなればと。鉄の串さしにして。ちまたにさらしたまへり。
飛驒の山奥にトンネルがあって異界に通じてて、そのなかで寝ていたら首と胴体が離れた女二人にたのまれて犯人を串刺しにした。で、ここにいると命なくなるので、土産を持たされて帰った。というおはなし(「夢路の風車」)。最後に、その隠れ里を探せと叫ぶ集団が出現するところがギョッとするが、この類いの話はおおいような気もする。これは一見マトリョーシュカなのだが、それよりも主人公の体験は「物語として実在する」という形で、マトショーシュカ的、すなわちどこまでが夢か現か的な、虚構の範囲を考えるのをやめた方がよい(やめることはできないのだが)とするのが水上雄亮氏の説であった。確かに、それはそうである。
それはそうとして、首だけの人間が行動するという話がわが人間は大好きだ。思うに、首なし屍体を見慣れていた我々の祖先は、それが物理的切断というより、世の中には、首とそのほかという「二者」が存在することを重要視していたに違いない。つまり、異界とこの世、あの世と此の世、などという観念と、首なし屍体と首というものの関係は、それほどちがうもんじゃなかったという感じがする。いまもそれは、我々がモノを考えるときには、基本、二者の関係を考えることから出発する習慣として残っているのではないだろうか。
例えば、横道誠氏の大活躍を拝見して思うんだが、宗教2世としての問題は最初は打ち出す問題の表面じゃなかったと思う。しかし、問題というのはたいがいこういう形で複合体なのである。その意味で、ちゃんと問題を問題として捉えるために活動は多面的にならざるを得ないというのが氏の活動の示したことだ。もっとも、この姿勢はきわめて常識的なものともいえるのである。だいたい学問が官吏的になると、問題に対して原因も解決も1対1になってなにかおかしいかんじになるわけである。問題からの逃避になってしまっている。――しかし、その1対1の対応も、二者なのだ。問題を一つとみると、解決をひとつ追加することで我々は安定する。
芥川龍之介の「河童」は、こういう「二者」の安定に欺瞞を感じていた。二者の中に様々な二者が含まれていて、その葛藤を大きな二者(河童界と現実)で解消してはならないと思っていたに違いない。
問題はかならず二つ抱き合わせで解決があるんだとわたくしの小学校の担任が言っていた。当時は省エネかと思ってたが、そうじゃなくて、問題は連関なんだといってたんだと思う。彼は自分の小説でもそういうことを描いてた。彼は小学校六年生に対して、物事をなしとげるために結果から逆算してやるべきことをきめてゆく、だけではだめなんだとも強調してた。プロセス自体に考える種が様々あってそこに良いか悪いかみたいなものが発生するんだと。当時はよくわからんかったけど、いまはわかる。