★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

殺された下男と出家したお姫様

2022-09-25 16:52:51 | 文学


おのおの世の不義といふ事をしらずや。夫のある女に。外に男を思ひ。または死別れて。後夫を。求るこそ。不儀とは申べし。男なき女の。一生に一人の男を。不儀とは申されまじ。又下々を取あげ。縁をくみし事は。むかしよりためし有。我すこしも不儀にはあらず。その男は。ころすまじき物をと。泪をながしたまい。此男の跡。とふ為なりと。自髪をおろしたまふとや。

お姫様に惚れていた下男であったが、お姫様の方でもそのぶおとこを好きになり、二人で出奔したところ、見つかってしまう。男は死刑、姫様も自害をすすめられるが、「私は不義などおかしておらぬ。不義というのは相手があるのに裏切ることである。辞書持ってねえのかよこのスカタン」といいはなち、ついに坊主になってしまった。

お姫様だけ助かるのは許せない。

「生きづらさ」とか「困りごと」という言葉が流行っているが、それを訴えてくる奴がたいがい俺よりもハッピーであるようなので許せない。たいがい、長く苦悩した方が負け、刹那に感情を動かしたような奴が生き延びるのがこの世の中である。大概の人を救う理論もそうで、長く我慢した人用にはできていない。長く反戦運動して係累を殺され自分も乱暴されたりして心をおかしくした人よりも、ベトナム帰還兵のほうがケアがあついのだ。「アサーショントレーニング」はそういうものであって、――おれなんか、こんなものを処された日にゃ、思弁的実在論の話の途中で突然「おれはそんなことより広瀬すずが大好きだ。でんでん虫に似てるから。」とか言ってしまいそうである。しかもそれが結論で。正直に言表出来たなら、「生きづらさ」や「困りごと」は、おれたち自身でも恐怖するぐらいの想像を超えた複雑さで現れるのだ。自分も周囲もおかしくなってしまうであろう。

複雑すぎるのか偶然なのか、そこはわからないが、「悲劇」というものはそれを表現するために生じた。でも、シェイクスピアでさえ、王様の息子や金持ちのお姫様に同情的であって、かわいそうな我慢し続けている人々を観客に押し込めたままである。例えば、マルクス主義者が官僚的になるのは分かるけれども、もともと官僚も官僚として生まれたわけでもなし、官僚しか逃げ道がなかったと考えた方がいい時代も状況もあるに違いないのである。