★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

アクチュアリティと「意味」の世界

2022-09-26 23:03:12 | 文学


あまたのけんぞくを集め。さてもさても世の中に。檜物屋程。おそろしき物はなし。かさねて行事なかれ。思へばにくし。けふのうちに。此御山を焼拂ひ。細工人奴をはだかになすべしと。


天狗が美少女に化けて檜物細工屋のところにやってきて、何の拍子か鼻に道具の一部が当たって腹をたててしまったのである。その怒りは上のようにすごく、高野山を焼き払い、細工人を裸にしてやると。ここである坊さんが身を天狗道に落としてなんとかしようと障子を翼に飛び立っていったのだが、結局その寺は天狗のものになってしまった。

怒りの矛先はいろいろあるものだが、そのままの結果をもたらさない。例の暗殺事件だってそうなのだ。我々は歴史に拠ってしか、事態を知ることはない。明日の国葬に、当該暗殺事件を元にした映画の上演がぶつけられるということで話題になり、その上映を九州の映画館がとりやめたみたいなニュースもとびこんできた。そもそも、ほにゃらら事件をもとにした映画というのは結構難しいジャンルだ。考えてみりゃ大河ドラマだって過去の暗殺事件をやたらなめ回しているわけで、これはこれで見られなくはないわけだ。が、現在に立脚して描くのは結構難しいことだ。大河ドラマなどは、「歴史が判断する」みたいなカスみたいな意味では有効なのではなく、歴史が我々の不見識を助けてくれるところはあるからである。アクチュアリティを実現するのは――、映画と違うけど、若い大江健三郎ぐらいだろう、なんとかやれるのは。三島も何回もそういうことやったけどあまり上手くいってない気がする。(訴えられたぐらいだ。彼の派手な死に方は、アクチュアリティの実現という意味もあったに違いない。)アクチュアリアティに立脚するってことが、三島にとっては、なんか燃え上がるきれいなベッドシーンになっちゃうところがあるが、大江の場合は、例えば「炎症をおこして懊悩する僕のペニスのための!」(『万延元年のフットボール』)といった台詞にそれがあって、――こういう台詞を投げ込んでくるタイミングがイチローのヒット並みに精確なのだ。

この運動神経は、人間特有のものがあるような気がする、というかそう信じたい。思うに、ゴダールの「映画史」なんか、これからAIがそれっぽい映画史を紡ぐことへの先制攻撃だったのかもしれない。

そういえば、さっき、中国語訳の『万延元年のフットボール』の当該箇所をみてみたが、あんまり感じが出ないな。(中国語がわからない筆者の感想です)というか、我々の読書の感覚の大部分は、カタカナとか横文字とかから受ける感覚をでこぼこさせているだけなのではないかと思うのである。これが漢字だけとか横文字だけだと、感覚以上に敏感にならないと「意味」を読めない。その敏感さが、「意味」――行動や思想への欲望をつくる癖を生んでいるかも知れない。少なくとも、我々は自分たちの文章のでこぼこした感覚でなんとなく「意味」以前に世界と和解しているところはある。

大学生のころ、自分の方が正しいんじゃねえかなと授業を受けてて思うこともあったし、先生と屡々意見の交換になったこともあるが、たぶん正しいかどうかで言えばいまでもいくつかは自分の方が正しいことがあったと思う。ただしそのころわたくしがわかってなかったのは、正しいことよりも何をしたかで人生は決まるということであった。そして、その正しさと自分の体や精神との戦いの方のほうを、正攻法で行わないとすべてが崩壊するということであった。そういう意味で、いま大学教員やジャーナリストが行っている面従腹背みたいなものは、その戦いを精神上のものとしてのみ捉えている意味でたいがい自己欺瞞に陥っている。だから、ますます言葉の上で正しさにすがるみたいなことが起きやすくなるわけである。これはリベラルでも権力の幇間でも同じことだ。

そう考えた上で、だいたい言ってること総体で欺瞞的であるかどうかは判断がつくという世界があり得る。そのときはじめて、リラダンのいわゆる、

Vivre? les serviteurs feront cela pour nous.(生きることか?召使いに任せるよ)

というせりふが意味を持つのである。