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「あッ!」
鏡の中に、はっきり人間と猿の混血児のような動物の顔が見える。脅かされ、後じさり、息も塞って、
「猿!……猿!」
目も離さずに見るうちに、鏡面の動物の顔は、だんだん大きくなり、活々とし笑うように震えながら、鏡の中から抜け出して来る、ヨハネス、一歩、一歩と後退りながら、
「何だ! 貴様は、何だ!」
一切構わずその動物の顔は、刻々、延び、拡がり、迫って来る。ヨハネス、狂ったように扉の方に走けつける。開かず。窓の方に走りよる。動かず、
「ああ! ああ! エッダ!」
両手を投げあげ、気絶して床に倒れる。震えつつ、しぼみつつ、奇怪な大きな顔は消え失せる――静かな、小さい蝋燭の瞬。――
――宮本百合子「猿」
「ウルトラセブン」の「恐怖の超猿人」はなんとなく、この番組もネタに困ってきたかな、と思わせるエピソードであるが、怪獣の髪の毛が不気味で、動物の動物性に対する感覚を正直に示していると思う。その点で、「猿の惑星」よりもクリティカルだったのではなかろうか。我々にとっての動物や自然は、どこまでいっても恐怖につきまとわれている。
わたくしも、いろんな神社やお墓を巡ってきたが、――おおくは大木の根や藪に覆われて墓石や塔が浮き上がったグロテスクな風景のなかに置かれている。我々がむかしから自然を恐れているのは、こういう風景を見てきたからというのもあるかもしれない。仏像や地蔵も川や土の中からでてくる。わたくしは木曽の生まれだから自然のなかで育ったところがあるけれども、まだ植物なんかが謙譲の美徳に溢れていたきがするのだ。平地にでてみたら、植物は一年中成長を続けており、人工物を翻弄している。
一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
「舞姫」では「あらず」なのだから、文脈上は否定されているのだが、鷗外がなんとなく「ニル・アドミラリイ」(無感動)の人であるのは印象としてはなくはない。一葉の表現する韻律としての人情に比べると、鷗外は人情を形而上に連れ去ろうとしているかのようだ。ファウストの結末のようなものかもしれない。「舞姫」の結末は、しかしその快楽を許さなかった。鷗外はもっと器械になりきれない器械をみていた。下のような言語=車のようなものである。自然物ではないが、人工物にしては扱いに困るたぐいのものである。
この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである。
今日は、この「空車」と「小説神髄」を比較して江藤淳の位置づけに至るような、たいそうな内容を授業中でっち上げた。こういうでっちあげは、墓石や神社を持ち上げる自然に属するのか、人工物に属するのか。