★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

突き放す結末?

2022-11-01 23:18:59 | 文学


年よられし親には、浜ちかき塩さへ、あたへず。折節の寒空、丸雪松原の、荒神の前も淋しく、割木の絶えて、悲しき事、思ひ詰めてや、夫婦、 同じ枕に心元を突き刺し、遠里小野の霜とは消えぬ。隣に近き、櫛屋・針屋・筆屋のかけ付け見しに、早こと切れて、ぜひもなく、各不便に思ひぬ。
かかる時、一子の八五郎帰り、この分野をみても、更に嘆かず。 人々、これをにくみ、死骸の取り置きにも構はず、野辺に送る人もなし。 八五郎、一人して、明き葛籠二つに、二人死骸を入れて、荷にかづき、鳶田の墓に急ぎしに、岸の 姫松の辺りにて、夜も明けがたなるに、この所放埒組、後より八五郎を切りて、つづらを手に持ちて、安倍野に隠れぬ。この仕合せ、明けて悔しかるべし。


博奕にはまってしまった息子のために没落しきり、火もおこせぬ家の中で両親が自殺した。周りはあわれに思った。ところに、息子が帰ってきても何の感情もないようなので、まわりはその息子憎さに何もてつだおうとしない。息子は二人の死骸を担いで墓まで運んでいたが、その途中で土地の乱暴者に後ろから切られた。

坂口安吾が「文学のふるさと」で、赤ずきんや狂言を引いて、

そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。


といっているけれども、西鶴の残酷さはむろん、坂口安吾のような、モラルがない、突き放す、ということに至るようで至らない。両親の死や周囲の人間の行動、どら息子の死、どれをとってみても予想の範囲内である。だからこそ、我々の社会はこの予想にしたがってモラルを強化して防ごうとする。そしてつねに、予想の範囲内を取締り、上の場合であれば息子の死を肯定する。コンプラやら危機管理とはかかる殺人を肯定することだ。

第二次世界大戦の経験は、ナチスや大日本帝国が合理的な何かにみえていたこともあり、これはなにか多くの人々に上の不孝話のように見えていたのではなかろうか。「夜長姫と耳男」はカフカの「変身」と一緒の雑誌に載っていて、わたくしは、戦後の安吾もどこか、あまりにもでかい破壊の前で、破壊がなにか上の「崖」ではなく、合理的な力のような気がしており、彼の言う「堕落」さえ合理的に逆行出来るみたいな錯覚があったような気がする。