「裁判は正義の実現手段ではない」という挑発的な(目立ちたがりの)テーゼを掲げ、裁判の現実の姿は一般人が認識しているところとは違うと指摘し、裁判に(本来は)何を期待すべきなのか、「裁判が本来そのようなものであることを予定されている姿、いわば裁判の原点を確認する」と主張する本。
裁判の現実が一般の方が認識しているものと違うということは、私自身もサイトであれこれ論じているのですが、そういう指摘は、裁判の実情をきちんと認識してそれを伝えること、そのことに責任感を持って行うことが、前提となると思います。
この本は、端的に言えば、議員定数訴訟を始めいわゆる政策形成訴訟など自己満足だと、人権派・社会派弁護士などを揶揄し貶め、そういった裁判で国の政策を違法とする判決を書く裁判所に対しては、選挙で選ばれた民主的基盤を持つ政権(内閣と国会)が、特に最近は立法も迅速に対応してよくやっているのだから、民主的基盤もない実力不足の司法がそれを妨害するな、と現政権に都合のいい主張をすることを目的として、それに合わせた事例を並べて「論」を構成したものと、私には見えます。
「日本の裁判所は消極的ではない」と論じている部分(第2章)。通常、司法消極主義・積極主義は政治権力との緊張関係で論じられるもので、過払い金返還請求(利息制限法の条文の事実上の無効化)や解雇権濫用、中古ゲーム転売と著作権で、法律の明文規定と異なったり明文規定がないところに新たな基準を作るような判例法理を展開しても、それ故に司法消極主義じゃないなんて議論は、議論のはぐらかし、素人相手の目くらまし、言葉の遊び、を超えた意味があるとは思えません。
そういう議論をするのにも、そもそもこの法学者は、労働法を理解して論じているのか、とても心許ない。この本を読んでいると、解雇権濫用法理は整理解雇(経営不振を理由とする解雇)についてのみの法理のようにさえ見えます(47ページ)。整理解雇の要件をめぐる議論と判例法理は、解雇権濫用の法理のごく一部に過ぎず、整理解雇以外の普通解雇や懲戒解雇にも解雇権濫用法理は、当然適用されます。また利息制限法の適用でも、返済によって残元金の額が減少すると制限利率が上昇する(50ページ)という、裁判実務ではあり得ない「解説」をしています。実務を知らないんだか、一部の強欲で無謀な主張をし続ける消費者金融に賛同しているんだか(52~55ページの書きぶりでは、過払い金の返還請求を認めた最高裁判決後、消費者金融に有利なように一定の条件を満たせば利息制限法を超える高利をとれるよう法改正した与党・国会ではなく、その改正法を再度骨抜きにする判決を出した裁判所の方に批判的ですから、著者は消費者金融・高利貸しに有利な法解釈がお好きなのかもしれません)わかりませんが、これははっきり間違いです。
一般人が認識していない裁判の制約として、著者は、「民事裁判においてはこの制約はより厳格で、あくまで当事者の主張を、当事者が提出した証拠に基づいて・判断しなくてはなりません(当事者主義)。仮に一方当事者の提出した証拠が捏造されたものだということを裁判官個人が偶然知っていたとしても、他方当事者がその旨を主張しない限り、それを判断の根拠に含めてはいけないのです。」(37ページ)と述べています。こういうところは目について売り文句になりやすいようで、読売新聞の書評(2018年2月19日)もその部分を(言葉は少し変えて)採り上げています。弁護士の目には、「えっ、いくらなんでも」と映ります。理論的にいっても、弁論主義・処分権主義で当事者が主張しない限り認定できないのは「主要事実」(法律の適用の要件となるような事実:例えばこういう内容の契約をしたとか)であって、ここで挙げられている証拠の信用性についての評価は対象となりません。主張されている事実を認定できるかどうかの部分では「自由心証主義」が当てはまり(民事訴訟法247条)、証拠評価(捏造された証拠で信用できない)は当事者の主張に拘束されない上、判決でも特定の証拠が信用できない理由を示す必要もないので、著者が示すような場合に、捏造された(とわかる)証拠を排斥するのに実務上何の障害もありません。それなのに何かそういうことがあると裁判所は正しい判断ができないかのような一般読者に誤解を与える書きぶりを、「法学者」というプロに見える肩書きでされると、たいへん困惑します(迷惑です)。
大屋雄裕 河出ブックス 2018年1月30日発行
裁判の現実が一般の方が認識しているものと違うということは、私自身もサイトであれこれ論じているのですが、そういう指摘は、裁判の実情をきちんと認識してそれを伝えること、そのことに責任感を持って行うことが、前提となると思います。
この本は、端的に言えば、議員定数訴訟を始めいわゆる政策形成訴訟など自己満足だと、人権派・社会派弁護士などを揶揄し貶め、そういった裁判で国の政策を違法とする判決を書く裁判所に対しては、選挙で選ばれた民主的基盤を持つ政権(内閣と国会)が、特に最近は立法も迅速に対応してよくやっているのだから、民主的基盤もない実力不足の司法がそれを妨害するな、と現政権に都合のいい主張をすることを目的として、それに合わせた事例を並べて「論」を構成したものと、私には見えます。
「日本の裁判所は消極的ではない」と論じている部分(第2章)。通常、司法消極主義・積極主義は政治権力との緊張関係で論じられるもので、過払い金返還請求(利息制限法の条文の事実上の無効化)や解雇権濫用、中古ゲーム転売と著作権で、法律の明文規定と異なったり明文規定がないところに新たな基準を作るような判例法理を展開しても、それ故に司法消極主義じゃないなんて議論は、議論のはぐらかし、素人相手の目くらまし、言葉の遊び、を超えた意味があるとは思えません。
そういう議論をするのにも、そもそもこの法学者は、労働法を理解して論じているのか、とても心許ない。この本を読んでいると、解雇権濫用法理は整理解雇(経営不振を理由とする解雇)についてのみの法理のようにさえ見えます(47ページ)。整理解雇の要件をめぐる議論と判例法理は、解雇権濫用の法理のごく一部に過ぎず、整理解雇以外の普通解雇や懲戒解雇にも解雇権濫用法理は、当然適用されます。また利息制限法の適用でも、返済によって残元金の額が減少すると制限利率が上昇する(50ページ)という、裁判実務ではあり得ない「解説」をしています。実務を知らないんだか、一部の強欲で無謀な主張をし続ける消費者金融に賛同しているんだか(52~55ページの書きぶりでは、過払い金の返還請求を認めた最高裁判決後、消費者金融に有利なように一定の条件を満たせば利息制限法を超える高利をとれるよう法改正した与党・国会ではなく、その改正法を再度骨抜きにする判決を出した裁判所の方に批判的ですから、著者は消費者金融・高利貸しに有利な法解釈がお好きなのかもしれません)わかりませんが、これははっきり間違いです。
一般人が認識していない裁判の制約として、著者は、「民事裁判においてはこの制約はより厳格で、あくまで当事者の主張を、当事者が提出した証拠に基づいて・判断しなくてはなりません(当事者主義)。仮に一方当事者の提出した証拠が捏造されたものだということを裁判官個人が偶然知っていたとしても、他方当事者がその旨を主張しない限り、それを判断の根拠に含めてはいけないのです。」(37ページ)と述べています。こういうところは目について売り文句になりやすいようで、読売新聞の書評(2018年2月19日)もその部分を(言葉は少し変えて)採り上げています。弁護士の目には、「えっ、いくらなんでも」と映ります。理論的にいっても、弁論主義・処分権主義で当事者が主張しない限り認定できないのは「主要事実」(法律の適用の要件となるような事実:例えばこういう内容の契約をしたとか)であって、ここで挙げられている証拠の信用性についての評価は対象となりません。主張されている事実を認定できるかどうかの部分では「自由心証主義」が当てはまり(民事訴訟法247条)、証拠評価(捏造された証拠で信用できない)は当事者の主張に拘束されない上、判決でも特定の証拠が信用できない理由を示す必要もないので、著者が示すような場合に、捏造された(とわかる)証拠を排斥するのに実務上何の障害もありません。それなのに何かそういうことがあると裁判所は正しい判断ができないかのような一般読者に誤解を与える書きぶりを、「法学者」というプロに見える肩書きでされると、たいへん困惑します(迷惑です)。
大屋雄裕 河出ブックス 2018年1月30日発行