古い過去帳を見る用事があって、ページをめくっていると、奇妙なことに気づきました。
その年によって、死亡者が少ない時と極端に多い時があります。子供だけが次々と亡くなっている年もあります。
宝暦6年には何と71名の死者が記載されていました。
その前後の年が10名程であることを考えれば驚異的な数です。
これは何かあったのではないかと思い『最上町史』を繙いてみると、やっぱりでした。
前年の宝暦5年は最上地内全域で大凶作となり、飢餓状態になったことが判明しました。
毎日毎日、時には1日に3名が亡くなった日もありました。ほとんど毎日葬式をしていたような状態だったろうと思います。
米が全く実らず、蕨や蕗の根っこを食べていたと記録にはあります。更には、稲藁を細かく切って煮てわずかな米と混ぜて臼でついて作る「藁餅」の製法などの資料もありました。
それでも飢えを凌ぐことはできず、餓死する人が絶えなかったということなのでしょう。
まさに地獄絵図の様相ではなかったでしょうか。
その後も当地は、大凶作、凶作、不作を繰り返すような時代が続きます。そんなことが過去帳からも鮮明に浮かび上がってきます。
それでも、この地で何とか生き継いできたのだなと、感動と敬意を覚えます。
同時に、今の暮らしの何と不遜なことかと思います。毎日毎日3300万食分の食糧を棄てている国、日本。そのことをきっと空腹と共に後悔する日が来るような気がしてなりません。