今晩は松林寺梅花講の盂蘭盆供養会でした。
お盆はご先祖様が帰ってくる期間として、お墓にお迎えに行く方が多いと思います。
しかし、震災でお墓やお寺を流されてしまった被災者の方は、どこにお迎えに行っていいのか困っています。
遺体も遺骨も帰ってこない人はさらに、落ち着かないお盆を迎えることと思います。
阪神淡路大震災の時、街全体がつぶれてしまった荒野に、お寺の本堂が真っ先に建ち上がる光景を見て違和感を覚えました。
なぜお寺が先なんだ。まず、檀信徒が建ち上がってその後お寺なのではないか。と憤りを感じたものです。
あるお寺の住職は、「たまたま震災前に本堂再建の計画があって寄付をいただいていたので、建てることができました」とおっしゃいました。その話を聞いたボランティアの一人は、「そのお金をそれぞれに返してくれたら、檀信徒の再建が早くできるのではないか」と言い、私もその通りだと思いました。
ところが、今回の災害の現場に立ち、被災者の話を聞きながら、もしかしたら、必ずしもそうとは言えないのではないかと思うようになりました。
家族を失った被災者の方は、まず、仏様をしかるべきところに安置して、落ち着いてもらってから自分たちの再建に向かうのだ、と思っている方が多くいるという事実を知ったのです。
大槌町のお寺さんでも、「仮本堂でもいいから、まず遺骨を安置して手を合わせる場所ができてから、それからじゃないと街の再建はできない」と檀信徒が言っておられました。
生きている人の生活はもちろん大事。だけれども、生活の再建に向かって全力を出し切るためには、心の不安定をなくすることが必要、それが、亡くなられた家族を安らかに安置すること、安定させることなのだろうと思ったのです。
阪神で覚えた怒りを反省しています。
亡くした家族を供養し、掌を合わせる的(まと)、形と場所があることの意味を教えられました。
どうか、お盆には間に合わない人々も、一日でも早く、お迎えに行き、送っていける場所ができることを切に願います。