なあむ

やどかり和尚の考えたこと

若者に冷たい国、ニッポン

2014年12月16日 08時48分11秒 | ふと、考えた
いつも配信いただいている、山形大学教授長岡昇先生のメールニュース。
今回のニュースもとても心に響きましたので転載させていただきます。

小石川通信21「若者に冷たい国、ニッポン」
 北国に住む住民の感覚で言えば、今回の総選挙は「みぞれ雪のような選挙」でした。晩秋の氷雨に感じる哀愁もなく、初冬の新雪がもたらす凛とした厳しさもない。やたら水分が多く、ぐずらぐずらと降って始末に困るみぞれ・・・。ふたを開けてみれば、自民党と公明党は合わせて1増の325議席、衆議院で3分の2を維持しました。弱々しい野党各党の議席数がいくらか増減しただけ。投票率が戦後最低を更新したのも、選挙戦を見ていれば「そうだろうな」と思えるものでした。なんとも虚しい結末です。

 けれども、その意味するところは重大です。これから4年間、安倍晋三首相は心おきなく、自ら信じる政策を推し進めることが可能になりました。彼の政治信条と政策を支持する人たちは「してやったり」と快哉を叫んでいることでしょうが、私は「とんでもないことになってしまった」と受けとめています。

 民主党政権時代の政治があまりにもひどかったため、安倍政権の手綱さばきが国民に安心感を与えていることは理解できます。株価もそれなりに持ち直しましたから、財界の受けがいいのも当然でしょう。おまけに「日本の法人税は先進諸国に比べて高すぎる。法人税の減税を検討する」と言い出していますから、なおさら受けはいいはずです。ですが、安倍政権が推し進める「アベノミクス」がこの国を苦境から救い出してくれるとは到底、思えないのです。

 エコノミストの浜矩子(のりこ)同志社大学大学院教授は「株価が上がれば経済がよくなるという考え方は本末転倒です」「最大の眼目が成長戦略だというのも時代錯誤です」と、アベノミクスを批判しています。私も同感です。今、日本が直面しているのは「冷戦後の混沌とした時代、多極化する難しい過渡期をどう生きていくのか」という難題であり、「人類が経験したことのない急激な少子高齢化の中で、富の分配をどう変革していくのか」という難題です。そういう新しい時代に、アベノミクスは「過去の延長線上の政策」で対処しようとしている、と考えるからです。「ビジョン」が欠落しています。前回の総選挙の際のスローガン「日本を取り戻す。」は、そのことを何よりも雄弁に物語っています。

 私は「自民党の政治など元々どうしようもないのだ」などと言うつもりはありません。新聞記者として働く中で、私は何度も「自民党の強さ」を思い知らされる経験をしました。懐が深い人が多い、と感じたのも自民党でした。なるほど、彼らの政策や主張はいわゆる革新政党のように筋道立ってはいません。正義や公平にも鈍感です。が、自民党は肌で知っているのです。多くの人にとって、何よりも大切なのは今日の暮らしであり、明日の糧を得ることです。そこにピタリと寄り添い、彼らは全力を尽くしてきたのです。敗戦の焼け跡から立ち上がり、経済成長の道をひた走るためにはそれが何よりも重要な政策であり、路線であると彼らは信じ、行動してきたのです。グダグダ言わずに一生懸命働き、ひたすらパイを大きくする――1980年代までは、それで良かったのかもしれません。

 しかし、世界の風景は激変しました。寄り添う大樹(米国とソ連)はもうありません。比較的落ち着いていた海は荒れ、海図も当てにならない時代。見たこともない航路も通らなければならなくなったのです。「日本を取り戻す。」などと過去を振り返っている場合ではありません。この難しい過渡期をどうやって生き抜き、道を切り拓いていくのか。今日と明日に加えて、もっと先の未来をも語らなければならない時代なのです。なのに、選挙戦で「今という時代」と「未来のビジョン」を語る政党と政治家がいかに少なかったことか。有権者もまた、それを求めることなく、選択を避けようとしているように見えました。

 未来が不透明であればあるほど、私たちは多様な価値観を理解する懐の深さを持ち、かじ取りを確かなものにするための手立てを考えなければなりません。また、若い人たちが難しい航海に乗り出すために準備するのを手助けしなければなりません。なのに、この国はますます「若者に冷たい国」になりつつあります。落ち着いて働き、将来の計画を立てることができるような仕事は減るばかり。財務省が発表している「世代ごとの生涯を通じた受益と負担」というデータを見ただけでも、それは明らかです。若者は重い負担と少ない受益に甘んじ、年寄りは負担した以上のものを受け取る仕組みになっており、その傾向は強まっています。それでいて、「今時の若者は内向きだ。覇気がない」などと平気で批判する世の中。若者に冷たい国、ニッポン。

 総選挙の公示日(12月2日)の翌日、私が勤める山形大学で「グローバル化への対応」をテーマにしたシンポジウムがありました。その席で、フランス人の講師が「アジア各国の英語習熟度」というデータを紹介してくれました。留学を希望する大学生や社会人が受けるTOEFL(トウフル)というテストの成績比較表(2013年)です。それによれば、1位はシンガポール、2位はインド、3位はパキスタン、4位はフィリピンとマレーシア、6位が韓国。以下、香港、ベトナム、中国、タイと続き、なんと日本は遠く離されてビリから3番目。日本より英語の成績が悪いのはカンボジアとラオスだけでした。

 それは、日本の英語教育のお粗末さを無残なまでに示すデータでした。アジアで長く取材してきた私の実感とも合致するデータでした。英語が世界の共通語となりつつある世界で、日本の若者は先進諸国どころか、アジア各国の若者にも遅れを取っているのです。「英語支配に追随する必要はない」という意見もあります。まっとうな意見です。が、それなら、スペイン語でもドイツ語でも、中国語でも韓国語でも構いません。「日本語以外の言語で意思の疎通を図る資質」を養う必要があります。日本の教育はその努力もしていない。これからの時代を、この島国に立てこもって生きていけと言うのか。

 若者への富の分配をどんどん薄くし、新しい時代に備える機会も十分に与えない。それでいて、膨大な借金の返済を彼らに押しつけ、原発の運転で生じた廃棄物の処理も押しつける――それが今、私たちが暮らしている社会の現実です。こんな社会でいいはずがありません。選挙こそそれを変えていく機会であり、政治こそそれを変革する原動力であるべきなのに、師走は虚しく過ぎ去りました。とんでもないことになってしまった、と思うのです。

- - - - - - -

長岡 昇 Noboru NAGAOKA