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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
9月3日日曜日。
9月に入りました。
当地の8月は本当に涼しい、夏とは思えないような天気が続き、農作物への影響が心配されます。
夏は暑く、冬は寒く雪が降るからこその農作物があり、それに合わせた商品や仕事があるわけで、単純に今日の過ごしやすさだけに喜びを求めてはならないでしょう。
便利さも同じです。
「便利」あるいは「煩わしくない」という価値観だけで選択をしてしまうと、何百年もかけて築き上げてきたことも簡単に失われ、二度と元に戻らないものもあるはずです。
それが将来どのような結果を招くのか、そう考えると恐ろしくもあります。
9月の新学期が始まるときが一年で一番子供たちの自殺が多いのだとか。
学校内のいじめ、仲間外れなど、子どもにとっては何よりも重要な問題が原因であることはハッキリしています。
その手段として、ラインやツイッターなどのSNSが使われ、面と向かっての態度と機械の言葉とのギャップに苦しむこともあるのだろうと想像されます。
SNSは使い方によってはとても便利な道具です。
一方使い方によってはとても危険な道具であるともいえます。
面と向かっては言えないことを、遠慮なく、その時の感情でぶつけてしまうことができます。
子どもにとっては武器にもなるでしょう。
実際その使い方によって死に追いやられることもあるわけですから、果たして、便利さの価値観を野放しにしていいものかと思うところです。
もちろん、問題なのは道具ではなく使う側の人間だという論理は分かります。
しかし、人間は道具に左右されてしまうことも事実です。
究極の道具と言えば、それはお金でしょう。
生活を楽にし、人間の信頼関係を明確にするために、なくてはならない、人間と切っても切れないと言っていいぐらいの道具です。
しかし、それはあくまでも道具であって目的ではありません。
なのに、その道具に振り回され、金の為に人を殺したり殺されたりということが起こるのは、道具を目的と勘違いしているからでしょう。
お金が悪いのではなくそれを使う人間が悪いのだ、と分かっていても、お金に左右されてしまっています。
世に安売りというものがありますが、それは果たしていいことなのかと思います。
同じ商品を他より安く売るためにはどこかに無理がかかっているということではないのか。
労働賃金だったり労働時間だったり。
誰かの犠牲の上に安売りがあるのだとすれば、それは結局買う側、社会全体に悪い影響を及ぼすのではないか。
例えば以前は、近所の商店同士がお互いに商品を売ったり買ったりして、値段は多少高くてもその利益をやり取りすることで互いが豊かに暮らしてこれたのではなかったか。
また、安くてすぐ捨てられるものではなく、世代を超えて使い続けるような「本物」も伝えられてきたのではなかったか。
安売りをすることで豊かになっているのは消費者ではなくて、ごく一部の人間だけではないのか。
むしろ、安売りによって生活も心も貧しくなってしまったのではないか、と思うところです。
目先のことではなく、未来にわたっての社会の豊かさ、幸福を見据えて選択をしていかなければならないと思います。
最近、朝のルーティーンにルームウォーカーでの歩きが加わりました。
ずいぶん前に買って、ちょっとしてしばらく放っておいたものを使い始めたところです。
ただ歩くのは退屈なのでタブレットでyoutubeを見ながら歩くのですが、昨日は「100分で名著『正法眼蔵』」を見ました。
「なるほどそういうことか」と、なかなか勉強になります。
価値観を見誤らないで選択できるように、宗教の教えに触れておくことはいいことだと思います。
そういう意味では便利な道具があります。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
©遠藤浩信エンドーフォト
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
9月3日日曜日。
9月に入りました。
当地の8月は本当に涼しい、夏とは思えないような天気が続き、農作物への影響が心配されます。
夏は暑く、冬は寒く雪が降るからこその農作物があり、それに合わせた商品や仕事があるわけで、単純に今日の過ごしやすさだけに喜びを求めてはならないでしょう。
便利さも同じです。
「便利」あるいは「煩わしくない」という価値観だけで選択をしてしまうと、何百年もかけて築き上げてきたことも簡単に失われ、二度と元に戻らないものもあるはずです。
それが将来どのような結果を招くのか、そう考えると恐ろしくもあります。
9月の新学期が始まるときが一年で一番子供たちの自殺が多いのだとか。
学校内のいじめ、仲間外れなど、子どもにとっては何よりも重要な問題が原因であることはハッキリしています。
その手段として、ラインやツイッターなどのSNSが使われ、面と向かっての態度と機械の言葉とのギャップに苦しむこともあるのだろうと想像されます。
SNSは使い方によってはとても便利な道具です。
一方使い方によってはとても危険な道具であるともいえます。
面と向かっては言えないことを、遠慮なく、その時の感情でぶつけてしまうことができます。
子どもにとっては武器にもなるでしょう。
実際その使い方によって死に追いやられることもあるわけですから、果たして、便利さの価値観を野放しにしていいものかと思うところです。
もちろん、問題なのは道具ではなく使う側の人間だという論理は分かります。
しかし、人間は道具に左右されてしまうことも事実です。
究極の道具と言えば、それはお金でしょう。
生活を楽にし、人間の信頼関係を明確にするために、なくてはならない、人間と切っても切れないと言っていいぐらいの道具です。
しかし、それはあくまでも道具であって目的ではありません。
なのに、その道具に振り回され、金の為に人を殺したり殺されたりということが起こるのは、道具を目的と勘違いしているからでしょう。
お金が悪いのではなくそれを使う人間が悪いのだ、と分かっていても、お金に左右されてしまっています。
世に安売りというものがありますが、それは果たしていいことなのかと思います。
同じ商品を他より安く売るためにはどこかに無理がかかっているということではないのか。
労働賃金だったり労働時間だったり。
誰かの犠牲の上に安売りがあるのだとすれば、それは結局買う側、社会全体に悪い影響を及ぼすのではないか。
例えば以前は、近所の商店同士がお互いに商品を売ったり買ったりして、値段は多少高くてもその利益をやり取りすることで互いが豊かに暮らしてこれたのではなかったか。
また、安くてすぐ捨てられるものではなく、世代を超えて使い続けるような「本物」も伝えられてきたのではなかったか。
安売りをすることで豊かになっているのは消費者ではなくて、ごく一部の人間だけではないのか。
むしろ、安売りによって生活も心も貧しくなってしまったのではないか、と思うところです。
目先のことではなく、未来にわたっての社会の豊かさ、幸福を見据えて選択をしていかなければならないと思います。
最近、朝のルーティーンにルームウォーカーでの歩きが加わりました。
ずいぶん前に買って、ちょっとしてしばらく放っておいたものを使い始めたところです。
ただ歩くのは退屈なのでタブレットでyoutubeを見ながら歩くのですが、昨日は「100分で名著『正法眼蔵』」を見ました。
「なるほどそういうことか」と、なかなか勉強になります。
価値観を見誤らないで選択できるように、宗教の教えに触れておくことはいいことだと思います。
そういう意味では便利な道具があります。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
©遠藤浩信エンドーフォト