なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ125

2017年09月17日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

9月17日日曜日。
先週に引き続き、今朝も東京からお送りします。
いえいえ、1週間ずっと東京にいたわけではありません。
先週の日曜日に米子に飛び、島根県松江、安来を回り、昨日の夜米子空港から東京に戻ったところです。
昨日のうちに山形まで帰れなかったので東京泊まりとなりました。
相変わらずバタバタしています。

藤沢周平の「一茶」を読みました。
当時の俳句詠み、俳諧師というものは、方々旅して暮らしたもののようです。
大きな商家や医者、武家、お寺の坊さんなどが俳諧師となって名をあげるということがあったようで、その場合はしっかりした経済的基盤があって、道楽のように俳句を詠んでいたのですが、一茶のように百姓の倅が喰うために俳句の道に入ったような場合は、経済的な基盤のある宗匠を訪ね歩き、そこで喰わせてもらいながら生きていくということだったようです。
例えば西国に旅するような時は足掛け7年という時間をかけて回ったようでした。
もちろん、歩きの旅ですから、移動するのにも日数がかかりますし、1か所に何日あるいは何カ月と逗留しながら移動していくわけです。
『奥の細道』ではありませんが、まさに、旅そのものが人生のようなことだったでしょう。

ひるがえってみて現代、高速移動の時代。
江戸時代から考えればワープをするようなものでしょう。
移動は旅ではなく、単なる移動手段になりました。
つまり、移動することが人生ではなく、その部分が人生から切りとられたような感じです。
ということは、高速移動によって色々なことができる半面、移動の時間だけ人生が短くなるようなものかもしれません。
移動が高速であればあるほどそんな気がします。
飛行機や新幹線より、鈍行列車の移動の方がまだ旅らしく感じます。
自分の足で歩くことが人生で、歩かない旅は人生ではないということでしょうか。
人間の思考は歩くリズムと調和しているのではないかと思うことがあります。
それは、心臓の心拍速度と関係しているかもしれません。
永平寺から歩いて帰って来た時、そんなことを思いました。
歩きながら、考えがよくまとまる、ものごとがよく見えるという感じでした。

しかし今、全て歩いて移動するというようなことは到底できません。
郵便局に手紙を出すのでさえ車を使います。
ましてや島根まで歩いて行くというようなことは無理です。
いや、無理なわけではないですね。
それが人生だと思えば、その移動時間を旅として生きればいいことです。
果たしてどちらが価値があることなのか。微妙です。
せめて、と思います。
高速移動中、スマフォをいじったり、週刊誌に目を落として周囲の人や景色を見過ごすようなことはもったいないことなのではないか。
移動中、目に映る人々を観察するのも面白いことです。あの人はどんな人生を送ってきたのか、着ている物、動き、顔の表情、声や言葉から、その人の喜びや苦しみを想像してみることも自分の人生の参考になるかもしれません。
高速であっても、移動を単なる手段にしないで旅としての目的ととらえることはできるはずです。
同じように、生活のすべての時間を手段ではなく目的にすること、それが禅的な生き方、生活禅となります。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。