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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
5月20日、日曜日
今日は広島からお送りしています。
昨晩は、毎年お邪魔している呉の神応院さんの仏教講話会でした。
昨年から「四無量心」を取り上げてお話させていただいています。
四無量心は「慈」「悲」「喜」「捨」の四つの心のことですが、「慈悲」「喜捨」という二字熟語になって広く使われる言葉なので、そう難しくないだろうと高をくくってテーマに選んだのですが、少し学んでみると、これがなかなかどうしてどうして、そう簡単でないことが分かり、昨年はテーマに選んだことを後悔したほどでした。
奥深いことを少し学ばせていただいたことで、それはそれでよかったかなと思っています。
昨年は、その成り立ち、総論のところを話させていただき、今回は「慈」についての話でした。
仏教が中国にわたって漢訳され、「慈しみ」の「慈」という字が充てられましたが、その元の言葉はサンスクリット語で「マイトリー」というものでした。
その直接的な意味は「友情」だと言われます。
「あたかも母親が己が一人子を命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対してもまた、無量の慈しみの心を起こせ」
と経典には出てきます。
親が子に対する感情は「愛情」ですが、その心を、親子、夫婦、兄弟という親族ではなく、あるいは愛する異性に対してではなく、すべての生きとし生けるものに向けられる、という意味で「友情」「最高の友情」と表現されています。
また、具体的には、心に害意、敵意、嫌悪、怒りがないこと、と説かれています。
相手を怒りの心で見ない、嫌悪感や敵対心をもって傷つけようとしない心、それを友情と表現されているわけです。
「怒り」は、人間の三つの根本的な煩悩「三毒」の一つとされるように、生きているかぎりなかなか消し去ることができませんし、自分でコントロールすることも難しい心です。
でも、この怒りの原因は何か、怒りはどこから起こってくるのかと考えてみると、「自分が正しい」と思うところから発しているように思います。
自分が間違っていて、相手が正しいと思う時は、反省もし、恥ずかしいとも思いますが、自分は正しい、間違っているのは相手だと思う時、相手に対して怒りが起こるのだと思います。
しかし、「正しさ」というものは時と場合によって、あるいは見方によって変わってくるのが常で、絶対自分が正しいと思うことが間違いなのかもしれません。
ダライ・ラマは、「怒りには2種類あって、慈悲から発せられる怒りと、悪意から発せられる怒りだ」と言われています。
慈悲から発せられる怒りは、相手の行為に向けられるもので、親が子どもの危険を察して叱るように、その行為がなくなれば怒りもなくなる。
しかし、悪意の怒りは、人に向けられるので、攻撃的になりそれが報復となって繰り返される。
慈悲の怒りは、理不尽な社会のシステムを転換するためのエネルギーともなるので必要な怒りだ、と。
だとしても、怒りはないにこしたことはないと思いますが、そんなことを学ばせていただきました。
今晩は天童温泉で高校の同級会です。
還暦の同級会はクラスごとにやったのですが、学年全体の同級会もやろうということになったのです。
公務員が多いですからね。それぞれ要職を離れ、暇にもなり寂しくもなったのでしょうね。
現役ですが、おつき合いしますよ。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
5月20日、日曜日
今日は広島からお送りしています。
昨晩は、毎年お邪魔している呉の神応院さんの仏教講話会でした。
昨年から「四無量心」を取り上げてお話させていただいています。
四無量心は「慈」「悲」「喜」「捨」の四つの心のことですが、「慈悲」「喜捨」という二字熟語になって広く使われる言葉なので、そう難しくないだろうと高をくくってテーマに選んだのですが、少し学んでみると、これがなかなかどうしてどうして、そう簡単でないことが分かり、昨年はテーマに選んだことを後悔したほどでした。
奥深いことを少し学ばせていただいたことで、それはそれでよかったかなと思っています。
昨年は、その成り立ち、総論のところを話させていただき、今回は「慈」についての話でした。
仏教が中国にわたって漢訳され、「慈しみ」の「慈」という字が充てられましたが、その元の言葉はサンスクリット語で「マイトリー」というものでした。
その直接的な意味は「友情」だと言われます。
「あたかも母親が己が一人子を命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対してもまた、無量の慈しみの心を起こせ」
と経典には出てきます。
親が子に対する感情は「愛情」ですが、その心を、親子、夫婦、兄弟という親族ではなく、あるいは愛する異性に対してではなく、すべての生きとし生けるものに向けられる、という意味で「友情」「最高の友情」と表現されています。
また、具体的には、心に害意、敵意、嫌悪、怒りがないこと、と説かれています。
相手を怒りの心で見ない、嫌悪感や敵対心をもって傷つけようとしない心、それを友情と表現されているわけです。
「怒り」は、人間の三つの根本的な煩悩「三毒」の一つとされるように、生きているかぎりなかなか消し去ることができませんし、自分でコントロールすることも難しい心です。
でも、この怒りの原因は何か、怒りはどこから起こってくるのかと考えてみると、「自分が正しい」と思うところから発しているように思います。
自分が間違っていて、相手が正しいと思う時は、反省もし、恥ずかしいとも思いますが、自分は正しい、間違っているのは相手だと思う時、相手に対して怒りが起こるのだと思います。
しかし、「正しさ」というものは時と場合によって、あるいは見方によって変わってくるのが常で、絶対自分が正しいと思うことが間違いなのかもしれません。
ダライ・ラマは、「怒りには2種類あって、慈悲から発せられる怒りと、悪意から発せられる怒りだ」と言われています。
慈悲から発せられる怒りは、相手の行為に向けられるもので、親が子どもの危険を察して叱るように、その行為がなくなれば怒りもなくなる。
しかし、悪意の怒りは、人に向けられるので、攻撃的になりそれが報復となって繰り返される。
慈悲の怒りは、理不尽な社会のシステムを転換するためのエネルギーともなるので必要な怒りだ、と。
だとしても、怒りはないにこしたことはないと思いますが、そんなことを学ばせていただきました。
今晩は天童温泉で高校の同級会です。
還暦の同級会はクラスごとにやったのですが、学年全体の同級会もやろうということになったのです。
公務員が多いですからね。それぞれ要職を離れ、暇にもなり寂しくもなったのでしょうね。
現役ですが、おつき合いしますよ。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。