♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第227回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
9月8日、日曜日。
早くも9月第2週目。
この1週間は何故か特に早かったように感じます。
先週の用事は、水曜日に東北管区教化センターの教化フォーラムで、「生きるための修証義」と題して5章を5回に分けて話させていただいている第4回目。
結構時間をかけて準備をしているので、話したいこともたくさんあります。それでも1時間30分の時間の中に納めなければなりません。
13時35分から15時5分まで話をしてその後15分の質問の時間という打ち合わせで了解していました。
ところが、話しているうちに何時で終了なのか分からなくなっていました。
「時間が足りなかったら質問の時間いっぱいまで話してもらっても結構です」という事前の言葉が頭に残っており、それを足すと終了は15時40分かなと、何故か勝手に思い込んでしまいました。
話しながら、「まだこんなに時間があるんだ」と思ったことも事実です。
なので、最後の部分に充分時間を使い、気持ちよく話をして15時25分に終了しました。
なんということでしょう。
司会者が「2時間あまり充分お話しいただいて、質問の時間が無くなってしまいました」と。
それではじめて時間の間違いに気づきました。
いやー申し訳ない。いつもは時間キッチリにあるいは時間前に終わるのが常で、延びるのはいけないことだと思っているので面目ないことです。
その中でこんな話をしました。
「布施というは貪らざるなり」ということは、施して見返りを求めないこと。
挨拶も言葉の布施行だが、こちらから挨拶をして返事がないと「なんだ返事もなしか」と怒りを感じてしまいます。
施しっぱなしでいいのに、返事という見返りを求めると怒りになる。つまり貪りが怒りを生むということです。
お代官様に饅頭を施した越後屋に、底に小判が潜んでいるのを見て「越後屋お主も悪よのう」というのは、その施しが見返りを求める下心があることを知っているからです。
見返りを求める気持ちがなければ、饅頭も小判も布施になり越後屋は善人であるはずなのに、貪りがあるばかりにそれは賄賂となり悪と呼ばれます。
貪りを承知で受け取る側にも貪りがあります。そのために饅頭も小判も汚れたものになってしまいます。
布施か賄賂かは貪りがあるかないかの違いです。
というような話でした。
今月の掲示板の言葉は次のようなことを書きました。
飾らず
ありのままでいい
自分に、自信をもて
人生は誰かと比べてみても意味がありません。
自分は自分の人生しか生きられないのですから。
他人がどんなに周りからチヤホヤされようとも、それがその人の価値かどうかは何とも言えません。
チヤホヤされることが幸せかどうかも分かりません。たとえその人が幸せを感じていたとしても、それがいつまで続くかも分かりません。
なにより、その人が幸せだとしても、それであなたが不幸というわけでもないでしょう。
幸せは比べるものではありません。
それなのに、比べてうらやんだり、ねたんだりすることで自分がみじめになるのはバカげたことです。
自分に自信がある人は人をうらやんだりしません。
人の成功はおめでたいことであり、褒め称えることです。
人の善い行いを我がことのように喜ぶ心を「随喜(ずいき)」と言います。
そうすると、その人も善い行いをしたことと同じになるというのが布施の教えです。
あなたはあなたのままでいい、誰かに見られるからといって飾る必要はありません。
飾るのは、自分以上に見せようという貪りの心です。
自分以上に見せようとして自分と乖離して苦しみを生みます。
あなたの価値はあなたにも誰にも分からないことですから、自慢することも卑下することもありません。
ありのままという自信をもてばいいのです。
あなたのままで、自分に自信をもちましょう。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第227回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
9月8日、日曜日。
早くも9月第2週目。
この1週間は何故か特に早かったように感じます。
先週の用事は、水曜日に東北管区教化センターの教化フォーラムで、「生きるための修証義」と題して5章を5回に分けて話させていただいている第4回目。
結構時間をかけて準備をしているので、話したいこともたくさんあります。それでも1時間30分の時間の中に納めなければなりません。
13時35分から15時5分まで話をしてその後15分の質問の時間という打ち合わせで了解していました。
ところが、話しているうちに何時で終了なのか分からなくなっていました。
「時間が足りなかったら質問の時間いっぱいまで話してもらっても結構です」という事前の言葉が頭に残っており、それを足すと終了は15時40分かなと、何故か勝手に思い込んでしまいました。
話しながら、「まだこんなに時間があるんだ」と思ったことも事実です。
なので、最後の部分に充分時間を使い、気持ちよく話をして15時25分に終了しました。
なんということでしょう。
司会者が「2時間あまり充分お話しいただいて、質問の時間が無くなってしまいました」と。
それではじめて時間の間違いに気づきました。
いやー申し訳ない。いつもは時間キッチリにあるいは時間前に終わるのが常で、延びるのはいけないことだと思っているので面目ないことです。
その中でこんな話をしました。
「布施というは貪らざるなり」ということは、施して見返りを求めないこと。
挨拶も言葉の布施行だが、こちらから挨拶をして返事がないと「なんだ返事もなしか」と怒りを感じてしまいます。
施しっぱなしでいいのに、返事という見返りを求めると怒りになる。つまり貪りが怒りを生むということです。
お代官様に饅頭を施した越後屋に、底に小判が潜んでいるのを見て「越後屋お主も悪よのう」というのは、その施しが見返りを求める下心があることを知っているからです。
見返りを求める気持ちがなければ、饅頭も小判も布施になり越後屋は善人であるはずなのに、貪りがあるばかりにそれは賄賂となり悪と呼ばれます。
貪りを承知で受け取る側にも貪りがあります。そのために饅頭も小判も汚れたものになってしまいます。
布施か賄賂かは貪りがあるかないかの違いです。
というような話でした。
今月の掲示板の言葉は次のようなことを書きました。
飾らず
ありのままでいい
自分に、自信をもて
人生は誰かと比べてみても意味がありません。
自分は自分の人生しか生きられないのですから。
他人がどんなに周りからチヤホヤされようとも、それがその人の価値かどうかは何とも言えません。
チヤホヤされることが幸せかどうかも分かりません。たとえその人が幸せを感じていたとしても、それがいつまで続くかも分かりません。
なにより、その人が幸せだとしても、それであなたが不幸というわけでもないでしょう。
幸せは比べるものではありません。
それなのに、比べてうらやんだり、ねたんだりすることで自分がみじめになるのはバカげたことです。
自分に自信がある人は人をうらやんだりしません。
人の成功はおめでたいことであり、褒め称えることです。
人の善い行いを我がことのように喜ぶ心を「随喜(ずいき)」と言います。
そうすると、その人も善い行いをしたことと同じになるというのが布施の教えです。
あなたはあなたのままでいい、誰かに見られるからといって飾る必要はありません。
飾るのは、自分以上に見せようという貪りの心です。
自分以上に見せようとして自分と乖離して苦しみを生みます。
あなたの価値はあなたにも誰にも分からないことですから、自慢することも卑下することもありません。
ありのままという自信をもてばいいのです。
あなたのままで、自分に自信をもちましょう。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。