三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第252回。3月1日、日曜日。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
26日英会話。河北町考える会例会。
27・28日シャンティ理事会、役職員研修会。
そのような1週間でした。
29日予定していた映画「おだやかな革命」新庄上映会が、コロナウイルスのために中止となってしまいました。
おはようございます。3月となりました。
新型コロナウイルスの感染拡大が止まりません。
明日からの小中高校の休校が決まり、北海道が非常事態宣言を出し、いよいよ深刻な状況になってきました。
中国政府が感染を知りながら、パニックや春節への経済的な影響を恐れて情報を抑え込んだという報道がありました。
日本政府も経済への影響を懸念してか、感染拡大の事実が判明するのを恐れてできる検査を渋っているというような見方もあります。
いずれも見積もりが甘いというか、最悪の状況を想定して対策するのではなく、自分たちに都合がいいように想定して、それが故に対策が後手後手に回り、結局は後追いとなり更に感染を広げるという、失策を呈しました。
原発事故を引き起こしたのも、この想定の甘さ故だったでしょう。何も学んでいません。
これで今、地震でも起こったら避難所はどうするのでしょうか。開設できるのでしょうか。ボランティアに来てくれる人はいるでしょうか。隔離して閉鎖してクルーズ船のような状況をつくるのでしょうか。そんなことにならないように祈るばかりです。
いずれにせよ、経済への影響も拡大すると思われ、暖冬の反動も気がかりで、これからの半年、1年、未来が心配されます。それぞれが今のうちに食糧の備蓄をしておいた方がいいと思います。
話は変わって。
私はこれまで、各方面で「命の使い方」という演題でお話をしてきました。
台湾の仏教慈濟基金会の代表、證厳法師の「命の所有権はないが、使用権はある」という言葉を元に、「命は自分のものではないが、この命をどう使うかは自分にまかされている」という内容の話です。
その中で、生まれることを選べない、老いも、病も、死も、生老病死の何一つ、自分ではどうにもならない、命は命におまかせする以外にない。と言ってきました。
先日の夜中2時過ぎに目が覚めて、ぼんやり考えている間に、それは間違いだったと気がつきました。
「生死を生死にまかす」というのは道元禅師の言葉で、命のことは命にまかせる以外にない、というのは究極的にその通りなのですが、その時々の命の使い方、行動の選択はもう少し細かく考えるべきではないのか、という気づきです。
つまりは、老いも、病も、死も、向こうから勝手にやって来るのであり自分にはどうにもできない、というような考えは、あまりにも命にまかせっぱなしで無責任ではないのか。
何をどれだけ食べるか食べないか、何をどれだけ飲むか飲まないか、体をどれだけ動かすか動かさないか。それらは自分のその時々の選択によるもので、その結果ブクブク太っているのは実は自分の、命の使い方の責任です。
病も死も、時々の行動の選択の積み重ねによって起こる可能性がある、というか、それがほぼ要因だと思われ、勝手にやって来るなどと、命にまかせて、命に責任を押しつけるような考えは間違っていました。
自分はもういつ死んでもいい、死因はきっと心筋梗塞か脳内出血だな、などと他人事のように嘯いているのは無責任でした。
もう少し日々の生活にも責任をもって行動しないと命に申し訳ないことだと思ったことでした。
「自分のものではない」と言いながら、命を自分の奴隷のごとくにわがまま勝手に使って、何か問題があると奴隷のせいにするようなものです。
太る体質のようなものは確かにあるように思いますが、だとしたらその体質の中でどう動くのかは自分の選択です。遺伝子のせいにしてはいけません。
体を動かすのが好きというアスリート体質の人もいて、それはうらやましいことですが、ではそうではない自分はどうすればいいのかは、やはり自分の選択、行動、命の使い方なのだと言えます。
そんなことをカミさんに言えば「何をいまさら、そんなことわかりきってるじゃない、だから前からそう言ってるでしょ!」と言われるのは明らかですから黙っています。
男はどうも、私だけかもしれませんが、「行動基準」のような枠組みで考えてしまう傾向がありますが、彼女、女性は「日常の行動」で考えるのかもしれません。脳科学者中野信子が言うように「男脳と女脳」は違うように思います。
ということで、昨年の11月以来畳んだままになっていたウオーキングマシーンを開いてエクササイズを再開しようと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
26日英会話。河北町考える会例会。
27・28日シャンティ理事会、役職員研修会。
そのような1週間でした。
29日予定していた映画「おだやかな革命」新庄上映会が、コロナウイルスのために中止となってしまいました。
おはようございます。3月となりました。
新型コロナウイルスの感染拡大が止まりません。
明日からの小中高校の休校が決まり、北海道が非常事態宣言を出し、いよいよ深刻な状況になってきました。
中国政府が感染を知りながら、パニックや春節への経済的な影響を恐れて情報を抑え込んだという報道がありました。
日本政府も経済への影響を懸念してか、感染拡大の事実が判明するのを恐れてできる検査を渋っているというような見方もあります。
いずれも見積もりが甘いというか、最悪の状況を想定して対策するのではなく、自分たちに都合がいいように想定して、それが故に対策が後手後手に回り、結局は後追いとなり更に感染を広げるという、失策を呈しました。
原発事故を引き起こしたのも、この想定の甘さ故だったでしょう。何も学んでいません。
これで今、地震でも起こったら避難所はどうするのでしょうか。開設できるのでしょうか。ボランティアに来てくれる人はいるでしょうか。隔離して閉鎖してクルーズ船のような状況をつくるのでしょうか。そんなことにならないように祈るばかりです。
いずれにせよ、経済への影響も拡大すると思われ、暖冬の反動も気がかりで、これからの半年、1年、未来が心配されます。それぞれが今のうちに食糧の備蓄をしておいた方がいいと思います。
話は変わって。
私はこれまで、各方面で「命の使い方」という演題でお話をしてきました。
台湾の仏教慈濟基金会の代表、證厳法師の「命の所有権はないが、使用権はある」という言葉を元に、「命は自分のものではないが、この命をどう使うかは自分にまかされている」という内容の話です。
その中で、生まれることを選べない、老いも、病も、死も、生老病死の何一つ、自分ではどうにもならない、命は命におまかせする以外にない。と言ってきました。
先日の夜中2時過ぎに目が覚めて、ぼんやり考えている間に、それは間違いだったと気がつきました。
「生死を生死にまかす」というのは道元禅師の言葉で、命のことは命にまかせる以外にない、というのは究極的にその通りなのですが、その時々の命の使い方、行動の選択はもう少し細かく考えるべきではないのか、という気づきです。
つまりは、老いも、病も、死も、向こうから勝手にやって来るのであり自分にはどうにもできない、というような考えは、あまりにも命にまかせっぱなしで無責任ではないのか。
何をどれだけ食べるか食べないか、何をどれだけ飲むか飲まないか、体をどれだけ動かすか動かさないか。それらは自分のその時々の選択によるもので、その結果ブクブク太っているのは実は自分の、命の使い方の責任です。
病も死も、時々の行動の選択の積み重ねによって起こる可能性がある、というか、それがほぼ要因だと思われ、勝手にやって来るなどと、命にまかせて、命に責任を押しつけるような考えは間違っていました。
自分はもういつ死んでもいい、死因はきっと心筋梗塞か脳内出血だな、などと他人事のように嘯いているのは無責任でした。
もう少し日々の生活にも責任をもって行動しないと命に申し訳ないことだと思ったことでした。
「自分のものではない」と言いながら、命を自分の奴隷のごとくにわがまま勝手に使って、何か問題があると奴隷のせいにするようなものです。
太る体質のようなものは確かにあるように思いますが、だとしたらその体質の中でどう動くのかは自分の選択です。遺伝子のせいにしてはいけません。
体を動かすのが好きというアスリート体質の人もいて、それはうらやましいことですが、ではそうではない自分はどうすればいいのかは、やはり自分の選択、行動、命の使い方なのだと言えます。
そんなことをカミさんに言えば「何をいまさら、そんなことわかりきってるじゃない、だから前からそう言ってるでしょ!」と言われるのは明らかですから黙っています。
男はどうも、私だけかもしれませんが、「行動基準」のような枠組みで考えてしまう傾向がありますが、彼女、女性は「日常の行動」で考えるのかもしれません。脳科学者中野信子が言うように「男脳と女脳」は違うように思います。
ということで、昨年の11月以来畳んだままになっていたウオーキングマシーンを開いてエクササイズを再開しようと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。