三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第274回。8月2日、日曜日。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
27日月曜日、和田酒造訪問聞き取り
28日火曜日、葬儀
というような1週間でした。
8月に入りました。
結局7月はほとんど陽ざしがなく、夏の気温に達しないまま過ぎました。
そればかりか、記録的豪雨で最上川が各地で氾濫し、住宅の浸水被害が出ています。大石田町と尾花沢市では断水の状態が続いています。
近年、自然災害はどこでもいつでも起こりうる環境になっています。「数十年に一度」「記録的」という文言も耳慣れてしまえば特別なことではないということです。
メールや電話で安否確認の連絡を多数いただきました。ニュースの地名で思い出していただけただけでうれしく思います。
最上郡最上町ですが、最上川は流れておらず、その支流の小国川が流れています。今回最上町は思ったほどの豪雨もなく、小国川もさほどの増水はありませんでした。
ただ、日照不足で野菜の生育に影響が出ています。米にも病気が出始めるということで消毒が行われています。
一次産業は自然が頼りです。自然環境を維持することが一次産業を維持することに直結します。
今年種籾まで食べてしまえば来年の収穫がなくなると同じく、今の暮らしばかりを考えると将来の暮らしが立ちいかなくなる可能性があります。
地球環境は45億年かけて作られたものですが、それを人間の100年の生活が破壊をしてきているのです。
我が子や孫の生きる環境を考えれば、親の代で食料を食べ尽くすような愚かな行為はできないと気がつかなければなりません。
嘱託殺人の事件に関して石原元都知事がツィ―トしたことが問題になっています。
そのツィートとは「業病のALSに侵され自殺のための身動きも出来ぬ女性が尊厳死を願って相談した二人の医師が薬を与え手助けした事で『殺害』容疑で起訴された。武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ」というもの。
この発言で問題なのは、まずALSという難病を「業病」としたこと、次に「尊厳死」を無条件に認め「手助け」したとしていること、そして自殺を「切腹」と同一視して「介錯の美徳」と発言したことでしょう。
「業病」というのは「前世の悪行の報いとされる病」のことで、ハンセン病などがそう呼ばれた歴史がありました。
「前世の報い」という誤った考え方には仏教者も深く関与していたのであり、その点は過去の過ちに対して現在の僧侶も懺悔しなければならないことであり、曹洞宗では宗門を上げて繰り返し学習を続けているところです。
今この時代に「業病」という言葉が飛び出すこと自体、前時代的な人だなと思います。
石原氏は7月31日になってツィートで、「ALSを難病とせず業病と記したのは偏見によるものでは決してなく、作家ながら私の不明の至りで誤解を生じた方々に謝罪いたします」と発言しました。
果たして本当に「偏見によるものではない」のか、これまでの氏の数々の差別発言から察して疑わしいと思わざるを得ません。しかも「不明の至り」ということは、「業病」という言葉が差別的な発想の言葉だと「知らなかった」という意味でしょうか。そうではないでしょう。きっと十分認識した上で差別意識から飛び出したのだろうと推測します。
次に「尊厳死」ですが、いわゆる植物人間になっても生きていなければならないのかという議論は分かります。延命治療の在り方にも疑問を感じます。しかし、だからと言って、「尊厳死」などと死を選ぶことを人間らしさの権利のように美しく飾るような表現に違和感を覚えます。
命を自分の思いのままにしようとする時点で仏教の考えには反します。
しかもこの場合は、自分の意志で自分の死を選ぶ、つまり自殺そのもので、自分の力では自殺ができないからそれを「手助け」という殺人を依頼することです。
首を吊ろうとしている人を脇で見ていて、苦しそうだから足を引っ張ってやるという行為と変わらないでしょう。それを「武士道の切腹の介錯という美徳」ととらえるのは恐ろしいことです。
もしかして石原氏は、相模原殺傷事件の植松被告と同じ考えなのではないかと思ってしまいます。あれも美徳と考えるのでしょうか。「優生保護法」の考え方と似た匂いがします。
自殺防止の電話相談を受ける中で、「誰が死にたいと思う人がいますか。みんな死にたくはないのです。しかし生きているのが死ぬよりつらいと思うから、死ぬ方が楽だと思うから死を考えるんです。電話をかけた時点では遅いんです。そうなる前に何とかしないと…」という声を聞きました。
「死にたい」と訴える人に「じゃあ手伝いましょうか」ということが「美徳」だと考える社会になったら自殺を勧める人だって出てくるでしょう。「死にたい奴はみんな死ねばいい」と言うのでしょうか。
「みんな死にたくはないのです」という言葉を私は信じます。何とか止めたいと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
27日月曜日、和田酒造訪問聞き取り
28日火曜日、葬儀
というような1週間でした。
8月に入りました。
結局7月はほとんど陽ざしがなく、夏の気温に達しないまま過ぎました。
そればかりか、記録的豪雨で最上川が各地で氾濫し、住宅の浸水被害が出ています。大石田町と尾花沢市では断水の状態が続いています。
近年、自然災害はどこでもいつでも起こりうる環境になっています。「数十年に一度」「記録的」という文言も耳慣れてしまえば特別なことではないということです。
メールや電話で安否確認の連絡を多数いただきました。ニュースの地名で思い出していただけただけでうれしく思います。
最上郡最上町ですが、最上川は流れておらず、その支流の小国川が流れています。今回最上町は思ったほどの豪雨もなく、小国川もさほどの増水はありませんでした。
ただ、日照不足で野菜の生育に影響が出ています。米にも病気が出始めるということで消毒が行われています。
一次産業は自然が頼りです。自然環境を維持することが一次産業を維持することに直結します。
今年種籾まで食べてしまえば来年の収穫がなくなると同じく、今の暮らしばかりを考えると将来の暮らしが立ちいかなくなる可能性があります。
地球環境は45億年かけて作られたものですが、それを人間の100年の生活が破壊をしてきているのです。
我が子や孫の生きる環境を考えれば、親の代で食料を食べ尽くすような愚かな行為はできないと気がつかなければなりません。
嘱託殺人の事件に関して石原元都知事がツィ―トしたことが問題になっています。
そのツィートとは「業病のALSに侵され自殺のための身動きも出来ぬ女性が尊厳死を願って相談した二人の医師が薬を与え手助けした事で『殺害』容疑で起訴された。武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ」というもの。
この発言で問題なのは、まずALSという難病を「業病」としたこと、次に「尊厳死」を無条件に認め「手助け」したとしていること、そして自殺を「切腹」と同一視して「介錯の美徳」と発言したことでしょう。
「業病」というのは「前世の悪行の報いとされる病」のことで、ハンセン病などがそう呼ばれた歴史がありました。
「前世の報い」という誤った考え方には仏教者も深く関与していたのであり、その点は過去の過ちに対して現在の僧侶も懺悔しなければならないことであり、曹洞宗では宗門を上げて繰り返し学習を続けているところです。
今この時代に「業病」という言葉が飛び出すこと自体、前時代的な人だなと思います。
石原氏は7月31日になってツィートで、「ALSを難病とせず業病と記したのは偏見によるものでは決してなく、作家ながら私の不明の至りで誤解を生じた方々に謝罪いたします」と発言しました。
果たして本当に「偏見によるものではない」のか、これまでの氏の数々の差別発言から察して疑わしいと思わざるを得ません。しかも「不明の至り」ということは、「業病」という言葉が差別的な発想の言葉だと「知らなかった」という意味でしょうか。そうではないでしょう。きっと十分認識した上で差別意識から飛び出したのだろうと推測します。
次に「尊厳死」ですが、いわゆる植物人間になっても生きていなければならないのかという議論は分かります。延命治療の在り方にも疑問を感じます。しかし、だからと言って、「尊厳死」などと死を選ぶことを人間らしさの権利のように美しく飾るような表現に違和感を覚えます。
命を自分の思いのままにしようとする時点で仏教の考えには反します。
しかもこの場合は、自分の意志で自分の死を選ぶ、つまり自殺そのもので、自分の力では自殺ができないからそれを「手助け」という殺人を依頼することです。
首を吊ろうとしている人を脇で見ていて、苦しそうだから足を引っ張ってやるという行為と変わらないでしょう。それを「武士道の切腹の介錯という美徳」ととらえるのは恐ろしいことです。
もしかして石原氏は、相模原殺傷事件の植松被告と同じ考えなのではないかと思ってしまいます。あれも美徳と考えるのでしょうか。「優生保護法」の考え方と似た匂いがします。
自殺防止の電話相談を受ける中で、「誰が死にたいと思う人がいますか。みんな死にたくはないのです。しかし生きているのが死ぬよりつらいと思うから、死ぬ方が楽だと思うから死を考えるんです。電話をかけた時点では遅いんです。そうなる前に何とかしないと…」という声を聞きました。
「死にたい」と訴える人に「じゃあ手伝いましょうか」ということが「美徳」だと考える社会になったら自殺を勧める人だって出てくるでしょう。「死にたい奴はみんな死ねばいい」と言うのでしょうか。
「みんな死にたくはないのです」という言葉を私は信じます。何とか止めたいと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。