なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ275 掌を合わす的

2020年08月16日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第275回。8月16日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
10日月曜日、盆供養奉詠
12日水曜日、寺の墓参り
13日木曜日、お盆突入、法事たくさん
というような1週間でした。

もう送り盆となりました。
「特別なお盆」はいかがでしたか。
これまで「お盆くらい帰って来い」と言っても帰らないことはあっても、帰りたいのに「帰って来るな」と言うことはなかったでしょう。
ご先祖さまも「帰って来ないで」と言われたら寂しいですよね。
供養とは、亡くなった人に喜んでもらおうとすることですから、年に一度帰ってくるご先祖様に、家族がそろって顔を見せて喜んでもらおうというのがお盆です。いわば、ご先祖様と子孫の里帰りです。
そういう意味では、今年は、ご先祖様に十分に喜んでもらえたとは言えなかったですね。
お盆は、単に自分の身が故郷に帰るというだけでなく、心が自分に帰る、命が命に帰るという意味だったと言ってもいいでしょう。
「かえって楽でいいや」などという思いが定着して、お盆の意義が失われてしまわないように願います。

中島みゆきの『帰省』
 遠い国の客には笑われるけれど
 押し合わなけりゃ街は 電車にも乗れない
 まるで人のすべてが敵というように
 肩を張り肘を張り 押しのけ合ってゆく
   けれど年に2回 8月と1月
   人ははにかんで道を譲る 故郷からの帰り
   束の間 人を信じたら
   もう半年がんばれる

無条件で迎えてくれる人に会いに行く、人を信じることができることで自分をも信じることができる、生きていくエネルギーがもらえる。それがお盆と正月だと歌っているんですね。

墓の側の田んぼに蓮の花を植えてくれた親父たちが、墓参りのお供え用として蓮の葉を切って提供してくれました。
人に喜んでもらえたらうれしい、その単純な思いが善の基礎であり、それを行動にできることが幸せなことです。
住んでる場所にかかわらず、職業や立場にもかかわらず、この心さえ見失わなければ、幸せな心で暮らせると思います。
幸せな人の思いと行動は周囲に広がり、周りの人も幸せを感じたりします。

道元禅師は、
自分が施すことができたことを自分で喜べばいい。また、他人が施しをしたことを「素晴らしいことだ」と喜ぶことで自分の布施になる、と言っています。
自分は施しができなくとも、人の善行を喜ぶことができたら、それは布施をしたことと同じになるという教えはありがたいことです。
基本は、喜ぶことを喜ぶ、喜びを共にする、同喜同悲の心なのです。

お盆になると思い出す句があります。
 いくたびも 背きし父の 墓洗う

反抗ばかりしてきた父に、済まなかったと、掌を合わせるしかない今です。
仏壇やお墓のあるのはありがたいことだと思います。
掌を合わせて詫びる的があるからです。
海に散骨したはいいけれど、掌を合わせる的がはっきりしなくて心もとない、ということを聞きます。
どこにいても心で念ずればというかもしれませんが、しっかりした目標に向かって掌を合わせるという形がある方が、納得できるというか心が落ち着くと思います。
後継者の問題や経済的な理由で墓をつくらないという選択がありますが、どんな形であれ、お参りの形をとることのできる目標はあった方がいいでしょう。行為によって心が定まるからです。
亡くなった人に詫びたいとか、感謝の気持ちを伝えたいとかの時に、生きている者ができることは掌を合わせることだけですから、その対象があるのとないのでは気持ちの整理が違います。

お盆の行事は、単なる文化的宗教的な習慣ではありません。しかし、それが何の意味だとか、深い理由付けがどうのだとかはどうでもよく、「お盆は故郷に帰るものだ」という有無を言わさぬ伝統と受け止めることも必要だと思います。
何のために生きているのか、その意味が分からなければ生きている価値がないわけではないのですから、行事も意味などには関係なく、やらなければならないことはやらなければならない、という腹落ちをしたらいいと思います。
とにかく今年は「特別なお盆」だったのだと、自分にも家族にもご先祖様にも言い聞かせて、来年は通常に戻るように祈ります。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。