なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ276 モノと自分

2020年08月23日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第276回。8月23日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。
17日月曜日、オンライントークイベント『おだやかな革命』を観て
18日火曜日、葬儀
20日木曜日、リモート会議
21日金曜日、親戚葬儀
というような1週間でした。

毎日暑いですね。
報道では最近「危険な暑さ」などという言い方をするようになりました。どうぞ気をつけてください。
当方は、朝晩は涼しいので助かります。

起きるのがどんどん早くなっています。
今はだいたい3時半ぐらいかな。
トイレに行きたくなる時間によって前後するのですが、時には2時過ぎには起きてしまうこともあります。
以前はもう一度寝たのですが、今は頭が回転始めるので寝ていられないのです。
その分寝るのも早いです。8時は寝る時間です。
夜ぼんやりテレビを観て過ごすより、朝起きて何か書いたり読んだりする方が気持ちがいいです。
永平寺の修行時代、朝3時半の起床時間はまだ夜だと思いましたが、今は朝です。
今修行に行ったら起きるのがつらくないのにね。
年齢によって体調が変わり、リズムが変わり、興味が変わってくるのでしょう。それでいいと思います。
問題は昼に眠くなることです。お昼過ぎの葬儀の最中に眠くなったりするとけっこうつらいです。
こちらも気をつけなければなりません。

本当に人生は短いと、常に思います。
自分の不摂生を考えれば、最大生きてあと20年、短ければ明日かもしれません。
その時には、この今目に映っているものが全て消えてしまいます。
消えるのはモノではなく自分の方ですが、本人にとっては同じことです。
目の前のパソコンや、志ん朝や中島みゆきのCD、本や資料や仏像なども全て空に帰します。
私が逝くとともに私についてきてくれるものは何一つありません。もちろん家族も。
自分が死んだことは自分には認知できませんから、消えるということも分からないでしょうが、その直前には「分かる」ことでしょう。
考えるのは、今、目の前にあるモノと自分との関係です。
64年生きた中で手にしてきた「自分のもの」は数えきれないほどあります。
人間は、たくさんのモノに囲まれて生き、生きることでまたモノは増えていきます。
何一つ所有物を持たないで裸で生きている人間はいないでしょう。過去にはいたかもしれませんが。
モノは人の分身というか、モノを見ればその人が分かるとも言えます。ある意味一心同体です。
ところが。
突如病気で入院したとします。すると、一旦自分と自分のモノは隔離されてしまいます。
あるいは、介護施設に入所すれば、そこに持ち込むモノはごく限られてしまうでしょう。
家に残ったモノは持ち主と離れ、ほとんど意味をなくし、そのまま帰らぬ人となれば、モノのほとんどは家族によって処分されてしまいます。
自分のモノは「自分にとって意味のあるもの」なのです。
「それは大事なものだから大切にして」などと今際の際に願っても、大事かどうかはそれを扱う人の判断です。
かように、私のモノは私の一部のようなものであるからこそ、私と共に消えていきます。
今、目の前のモノをながめながら、これらが消えることを想像して自分が消えることを思うのです。
死んだ後に残せるのは、こんなモノではないはずです。
どう生きたのか。生きて見せたのか。

人間が生まれて数百万年。いやいや生物の起源から、親の生き方を見て子孫が学んできたのでしょう。
微生物も昆虫も動物も、長い年月を経て体形をも変えてきました。
鮭などは、自分が卵から孵ったときには親がいないので親を見て育つ、は限定的ですが、DNAに組み込まれた親の意思はあるように思います。
自分が生きてみて感じた生きにくさ、もっとこうすればうまくいくのに、という思いを次代に残したからこそ、変異は起こったのです。
現状に流され、無批判にただ生きているだけでは変化は起きません。
自分の生き方を他人に委ねないで、自分の意思を発揮すべきです。
自分のアイデアやカイゼンが自分が生きた証です。そのためにモノを使うのが人間の特徴です。
クジャクがあんな羽根を持つのも、キリンの首が長いのも、先祖から子孫へのカイゼンの歴史です。
人間の体だってこのまま変化しないわけではありません。
コロナを乗り越えた人類は、その耐性を身につけているかもしれません。

自分の生き方が子孫の生き方を左右するのです。
どうせ、などと自分をあきらめない。
死んで何を残すかは、どう生きるかです。
たくさんのモノに対する感謝も込めて、しっかり生きなければなりません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。