なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ324 存在と時間

2021年08月01日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第324回。8月1日、日曜日。

若い頃、こんなことを考えたことがありました。
自分は監視されているのではないか、と。
自分の一生というものが、何かの実験のように、生まれてから死ぬまで大勢の人々に観察されているのではないか。
マジックミラーか隠しカメラの陰から、昆虫が飼育箱の中で観察されながら生きているのを昆虫自体は知らないように。右往左往する様子を笑われているのではないか、と。
自分の目に映るもの、触れるものも、そのために用意された舞台装置であり、現実の世界ではない。
あるいは、もしかしたら、全ての人々が同じように、それぞれが自分一人だけの世界を生きているのであり、その一人一人の世界というものが厚みのない膜のようなのものであって、それが階層のように重なって決して混ざり合うことがないのではないか。
そこにあると思う家族やこの地球すら、現実のものか幻影なのか実は分からない。そんなことを考えたのでした。
今行われているオリンピックも、それはテレビで見ているだけで、本当にやっているのか確かめたわけではありません。作られたドラマかも知れません。たとえ、その会場に行って実際に自分の目で見たとしても、それはもしかしたら、自分の実験のために準備された舞台装置かもしれない。自分の目に見えるところだけ作られていて、その裏は張りぼてか虚空かもしれない。それは完璧には否定できないでしょう。
そんなことあり得ないと思うのは、社会は自分と関係なく存在し動いている、と思うからで、一人のためにそんな舞台装置を準備するわけがないと思うからでしょう。
でもそれは、現実のように見えている社会のサイズから推し量ったもので、そのサイズの見方を根底から覆して、一人分の人生は厚みのない2次元のフィルムのようなものだと仮定すれば、どんなものもその中に存在し得るでしょう。
バーチャルというものが不思議でもない現在においては、荒唐無稽とも言えないのではないか。
さらには、自分の人生も過去に何回か分離して、今の自分とは別の人生を生きている自分が階層のどこかにいるのではないか、あるいは死んでしまった自分もいるのではないか、と考えたりもしました。それは4次元ということになります。

『正法眼蔵』に「有時(うじ)」の巻がありますが、「有」とは存在で「時」は時間、それが一体であるという見方を説いた巻です。
原文は難解すぎてなかなか読めませんが、先生方の話をかじってみると、おもしろいと思いました。
我々は、過去から現在まで、自分が生きて経験した中に存在があると思います。たとえば山は太古の昔から今まで変わらずにそこに「ある」と見ます。時が移っても、山は山のままでそこにあり続け、その上を滑るように時が流れていく、と考えます。
しかし、道元禅師は、存在は時とともにあり、時を離れて存在はないという見方をするのです。
とても長い目で見れば、山は初めから今の形でそこにあるわけではありません。大陸が離れたりくっついたり海が山になったり地球そのものが形を変えてきました。
全てのものは変化し続けています。変化そのものが時です。山は動いているからそこにあるのです。
ですから、「時間よ止まれ」と言った時点で存在も消える。自分だけが止まらずに自由に動けるとしても止まった世界に存在はない、というようなことです。
時は流れていくように見えますが、それは存在の変化です。時が変化するのではありません。存在が変化するから時が流れたとみるのです。
時の流れが速いと思うのは、変化について行けない自分を感じるということで、過去に引きずられて変化が間に合わないということかもしれません。その変化についていけないままの自分が自分の有時です。それを道元禅師は「吾有時(ごうじ)」という言葉を使っています。

有時を先ほどの膜で考えると分かりやすいかなと思いました。
全ての存在は、「今」という膜の中にのみ存在している。
その膜は、無数に重なる階層の横の膜ではなく、全ての存在が一枚となった縦の膜ということではないか。
山も川も海も松も竹も、過去から未来に固定的にそこに存在すのではなく、「今」という膜の中にしか存在しない。そして、「つらなりながら時時なり」今の存在の中に過去の全ての存在が含まれている。
その膜は、無限の空間の中を休みなく移動し続けている。存在と時間の関係をそのように見ることができるのではないだろうか。
以前も話しましたが、その膜は、無数のピースが完全にはまったジグソーパズルのようなものと言ったらいいでしょうか。
一枚の膜は欠けることがなく余すことのない一つ一つのピースから成り立っていて、そこに境目はないので一つのピースは全体を含んでいると言える。
なので、その中の一つが悟りを開けば全てが悟りとなる。それが「同時成道」。
だとするならば、吾有時として而今をどう生きるのか、それが道元禅師からの命題です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。