三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第326回。8月15日、日曜日。
あんなに暑かったのに、台風が過ぎてから急に涼しくなりました。
朝晩は肌寒く感じるほどです。夜中に毛布を一枚掛け足しました。洗面の水も冷たく感じ、便座の暖房も欲しいと思います。
迎え盆も雨の中で、ろうそくも線香もあげられず、寂しいお盆に追い打ちをかけるようでした。
各地で大雨の被害に遭われた方々にはお見舞いを申し上げます。
「なんか痩せたんじゃない?」
「ガンだから」
「え?」
「冗談だよ、ちょっとダイエット」
「なあんだ、ビックリさせるなよ」
というような会話があったとします。
この時の「え?」の言葉の前後の心の動きを考えてみると、どうでしょう。
「この人死ぬのか?この人が死だらどうなる、あれは?これは?」と、1秒にも満たない一瞬のうちに、目紛しく仮定、想定の思いが駆け巡るのではないだろうか。
そのように、我々の脳は、とても回転速度の速い能力を持っています。
なのに、「何もしないのに一日が終わる」とか「1週間過ぎるのがなんて早いんだ」などと言ってしまうのは、脳の回転が鈍っているからかもしれません。ボーっと生きてるんですね。
いざという時のために脳を休ませているんだ、と言えなくもありませんが、常に休んでいるうちにいざという時も回転しなくなるかもしれません。
時々命の危機に瀕するような想定に出会うことも必要なのでしょうか。
『正法眼蔵随聞記』に次のような一文があります。
「馬より落つる時、未だ地に落ちざる間に種々の思い起こる。身をも損じ、命を失するほどの大事出来たる時、誰人も才覚念慮を起こすなり。その時は、利根も鈍根も同じく物を思い、義を案ずるなり」と。
落馬して地に着くまでの一瞬の間に様々に思いを巡らすだろうというのです。
人生が走馬灯のように振り返えられるかもしれませんし、家族のことや死んだ後のことまで思うかもしれません。
そのように、生まれつきの利根や鈍根にかかわらず「いざ」という時には、頭はフル回転するものだ。
なので、「人の鈍根と云うは、志の至らざる時の事なり」と道元禅師は言うのです。
強い志を持って事に臨めば、できないということはないでしょう。
利鈍や年齢に関係なく、いくつになっても志を遂げる例はたくさんあります。
「切に思うことは必ずとぐるなり」です。
「私には無理」「もう遅い」と思うのは志の至らない言葉です。
ですから、例えば、「自分はガンかもしれない、間もなく死ぬのかもしれない」と思っていろんなことを考えてみる、脳を回転させてみることも、あってもいいかもしれません。そこで悲観するのではなく、であるならば、今何をすべきか、この命のある間、何をしたいのか、そう考えてみる時間があった方がいいのではないか、と思うところです。
絵本作家、佐野洋子の言葉。
「余命二年と云われたら十数年私を苦しめてきたウツ病が消えた。人間は神秘だ。人生が急に充実して来た。毎日がとても楽しくて仕方ない。死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う」。
高校野球日大山形の校歌を聞いて思いました、「boys be ambitious」ならぬ「oldmans be ambitious 老人よ大志を抱け」です。加えて「 bozu be ambitious」。
情報と欲を断ずる、記憶を捨てる、物語から離れる。
坐っているとき、この断捨離を意識していますが、なかなか記憶は捨てられないし、物語から離れることも容易ではありません。
後悔や怒りや恨みの記憶は何度も浮かんできては再生されます。
その記憶から言葉が文章となり物語が続いていき、なかなか離れることができません。
その度に「断捨離、断捨離」と頭を振りますが、深く胸に刻まれた記憶は簡単に振り払うことも能わず何度も繰り返されます。
それでも、30分の間ずーっと同じ物語にとらわれているかと言うとそういうわけでもなく、次から次へと言葉は移り、いつの間にか時間が経っていたということもあります。時間が短く感じる時も長く感じる時もあります。
だから何ということもなく、ただ毎日坐っているだけのことです。
物語を追いかけることは好ましくありませんが、でもそこから話のヒントが生まれたり、ブログのアイデアが浮かんできたりすることも事実で、それはそれで実利はあります。「禅定」とは程遠いことですが。
最近、一緒に坐りたいという若者が現れ、時々一緒に坐っています。
外に出歩けない状況ですから、家の中で坐禅もいいと思いますよ。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
あんなに暑かったのに、台風が過ぎてから急に涼しくなりました。
朝晩は肌寒く感じるほどです。夜中に毛布を一枚掛け足しました。洗面の水も冷たく感じ、便座の暖房も欲しいと思います。
迎え盆も雨の中で、ろうそくも線香もあげられず、寂しいお盆に追い打ちをかけるようでした。
各地で大雨の被害に遭われた方々にはお見舞いを申し上げます。
「なんか痩せたんじゃない?」
「ガンだから」
「え?」
「冗談だよ、ちょっとダイエット」
「なあんだ、ビックリさせるなよ」
というような会話があったとします。
この時の「え?」の言葉の前後の心の動きを考えてみると、どうでしょう。
「この人死ぬのか?この人が死だらどうなる、あれは?これは?」と、1秒にも満たない一瞬のうちに、目紛しく仮定、想定の思いが駆け巡るのではないだろうか。
そのように、我々の脳は、とても回転速度の速い能力を持っています。
なのに、「何もしないのに一日が終わる」とか「1週間過ぎるのがなんて早いんだ」などと言ってしまうのは、脳の回転が鈍っているからかもしれません。ボーっと生きてるんですね。
いざという時のために脳を休ませているんだ、と言えなくもありませんが、常に休んでいるうちにいざという時も回転しなくなるかもしれません。
時々命の危機に瀕するような想定に出会うことも必要なのでしょうか。
『正法眼蔵随聞記』に次のような一文があります。
「馬より落つる時、未だ地に落ちざる間に種々の思い起こる。身をも損じ、命を失するほどの大事出来たる時、誰人も才覚念慮を起こすなり。その時は、利根も鈍根も同じく物を思い、義を案ずるなり」と。
落馬して地に着くまでの一瞬の間に様々に思いを巡らすだろうというのです。
人生が走馬灯のように振り返えられるかもしれませんし、家族のことや死んだ後のことまで思うかもしれません。
そのように、生まれつきの利根や鈍根にかかわらず「いざ」という時には、頭はフル回転するものだ。
なので、「人の鈍根と云うは、志の至らざる時の事なり」と道元禅師は言うのです。
強い志を持って事に臨めば、できないということはないでしょう。
利鈍や年齢に関係なく、いくつになっても志を遂げる例はたくさんあります。
「切に思うことは必ずとぐるなり」です。
「私には無理」「もう遅い」と思うのは志の至らない言葉です。
ですから、例えば、「自分はガンかもしれない、間もなく死ぬのかもしれない」と思っていろんなことを考えてみる、脳を回転させてみることも、あってもいいかもしれません。そこで悲観するのではなく、であるならば、今何をすべきか、この命のある間、何をしたいのか、そう考えてみる時間があった方がいいのではないか、と思うところです。
絵本作家、佐野洋子の言葉。
「余命二年と云われたら十数年私を苦しめてきたウツ病が消えた。人間は神秘だ。人生が急に充実して来た。毎日がとても楽しくて仕方ない。死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う」。
高校野球日大山形の校歌を聞いて思いました、「boys be ambitious」ならぬ「oldmans be ambitious 老人よ大志を抱け」です。加えて「 bozu be ambitious」。
情報と欲を断ずる、記憶を捨てる、物語から離れる。
坐っているとき、この断捨離を意識していますが、なかなか記憶は捨てられないし、物語から離れることも容易ではありません。
後悔や怒りや恨みの記憶は何度も浮かんできては再生されます。
その記憶から言葉が文章となり物語が続いていき、なかなか離れることができません。
その度に「断捨離、断捨離」と頭を振りますが、深く胸に刻まれた記憶は簡単に振り払うことも能わず何度も繰り返されます。
それでも、30分の間ずーっと同じ物語にとらわれているかと言うとそういうわけでもなく、次から次へと言葉は移り、いつの間にか時間が経っていたということもあります。時間が短く感じる時も長く感じる時もあります。
だから何ということもなく、ただ毎日坐っているだけのことです。
物語を追いかけることは好ましくありませんが、でもそこから話のヒントが生まれたり、ブログのアイデアが浮かんできたりすることも事実で、それはそれで実利はあります。「禅定」とは程遠いことですが。
最近、一緒に坐りたいという若者が現れ、時々一緒に坐っています。
外に出歩けない状況ですから、家の中で坐禅もいいと思いますよ。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。