なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ334 稔りと成長

2021年10月10日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第334回。10月10日、日曜日。

稔りの秋も終盤となりました。
ほとんどの田んぼは刈り入れが終わったようです。
ただ、山の木の実は不作のようで、熊が里に下りて来て、連日のように目撃情報が防災無線で流れます。
先日は町立病院の夜間診療のドアに近づいた姿が防犯カメラに映っていたようで警戒されました。
「どこか具合が悪かったのだろうか、それとも子供の具合が悪くて医者を呼びに来たのかも」と心配していました。
その数日後には愛宕山神社の近くで目撃され、「最後は神頼みかな、よっぽど悪いのか」とさらに心配しました。
今のところそんな笑い話で済んでいますが、近年は実際に襲われるケースも出ているので、まじめに気をつけなければなりません。

首を垂れる稲穂のように、人間も成長して稔っていかなければと思います。人生の秋を迎えているみなさん、稔ってますか。
秋だからといって、肥えてばかりではダメですよ。
春の新芽が夏に濃い緑となり、秋には黄や紅に染まります。
その変化は葉っぱの成長ととらえることもできるでしょう。
同じように人間も、ハイハイからヨチヨチ歩きとなり、逞しく駆け出し、やがて杖を友に三本足となり寝たきりになるのも、成長と受け止めるべきかと思います。どこまでが成長でどこからが退化かなどと区切りをつける必要はありません。
美しく紅葉する葉っぱを、退化や老衰などと呼ばないように、変化は美しき「成長」ととらえましょう。
「三つ子の魂」などと言うように、人は基本的には変わらないもの、変われないものかと思います。
しかし、変われないままにも成長することはできるでしょう。体だけが成長するのではなく、心というか、人間として成長していかなければならない、それが人間というものです。
人が成長するということは、伸びしろを失わないということかと思います。
満水状態のコップに新たな水を入れようとしても、こぼれるばかりでほとんど中には入りません。
できればジャーッと空っぽにすれば早いのですが、なかなかそうもいきません。
空っぽにはならないまでも、捨てられるものは捨てて、少し隙間を空けておけば新しい学びも入ってくるでしょう。
学びとは受け入れることですから、受け入れる余裕が成長につながります。

良寛和尚の辞世といわれる句

 うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ

隠し事なく、裏も表もあけっぴろげにさらけ出して散っていければそれは美しいことです。
なかなかそうできないからこそ、散るもみじに美しいと詠嘆するのですね。
もしかしたら、認知症というのは散るもみじに近いのかと思います。
家族の顔も思い出せないような状態では隠し事などできようはずもありません。
おしめを替えてもらう時には、文字通り裏も表もさらけ出しています。これ以上何を隠せましょう。
自分の持ち物という執着もないかと思います。持っているのは思い出だけか。
だとすれば、認知症こそが美しき成長と言えないでしょうか。
なりたくて認知症になる人もいないと思いますが、それでも、見方によっては嫌忌することではないと言えます。
柿の葉が、黄色くなるか紅くなるか、あるいは青いまま散るか、それは葉っぱの意思ではありません。
我々がどんなふうに散っていくかはおまかせする以外にないのです。
「信」という字には「まかせる」という意味があります。
どんな状態がやって来てもおまかせする、というのは受け入れるということで、学びや成長の態度です。
道元禅師の

 わが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて

というのは、仏におまかせするという信の姿です。
良寛和尚の辞世は、この信から発せられたものと思います。

今月の門前の掲示板にはこう書きました。
 
 未来の自分を救うものが
 いるとすれば
 それは、今の自分です (参考、常輪寺掲示板)

今日は今日の成長を遂げましょう。
身体を揺すれば、どこかに隙間ができるに違いありません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。