なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ335 怖れの分水嶺

2021年10月17日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第335回。10月17日、日曜日。

ある年齢に達すると、怖れの対象が年上の人から年下の人へと変わっていくように思います。
それを「怖れの分水嶺」と名付けてみました。
子どもの頃は「大人」という人間が、大きく怖い存在でした。
何かすると叱られる。この叱られるということが、子どもにとってはとても怖いことでした。
なので、ヒラメのように上目遣いで様子をうかがい叱られないように振舞っていたものです。
私が親に反発し始めたのは中学2年の頃からですが、それが少し変わったのは大学に入ってから、20歳ぐらいの頃か。
仲間と「近頃、親父が自分に似てきた」というような話にうなずき合ったことがありました。親が子どもに似るわけではなく自分が親に似てきたんだ、と気づいたあたりから、親が理解できるというか許せるという気持ちになっていました。
それが私にとって親との感情の分水嶺だったのでしょう。
しかし、親子と社会は違います。
仕事によって、立場によっても違うと思います。
サラリーマンの社会では定年という大きな節目が分水嶺かもしれません。
それまでブイブイ言わして部下を怖れさせていた人が、次の日からその部下の部下になるということも起こるのでしょう。
職場という限られた社会においては定年という明確な分水嶺がありますが、職場を離れた社会一般の中でも、上り坂から下り坂へ変わっていく地点があると感じます。

お坊さんの社会は一般の仕事場のような、同業者と常に顔を合わせる社会ではありませんが、それでも若僧にとって老僧は何か言われないかという怖れの存在です。
それは修行道場での経験が尾を引いているのかもしれません。道場では、一日でも早く門をくぐった者が上で、上の言うことは絶対だと叩き込まれます。なので、叱られないように、目立たないように生きることが染みついているのかと思います。しかもこの業界は定年がないのでいつまでも先輩は先輩なのです。
それでも、と最近思います。
「怖いのは上よりも下かな」と。

年上の人はどんどん衰え、あるいはこの世を去っていく。
怖いと思っていた人が次々といなくなっていく。
そんな時に、では怖いものがなくなるのかと言えば、そうではなくて、怖い存在が徐々に若い者に置き換わっていくのではないか、と思うのです。
若い者から尊敬されたり頼りにされたりしているうちはうれしいですが、次第に話の輪から外れ、疎ましく思われ、無視されるようになることを寂しいというより、怖いと感じます。
その分水嶺はいつか。
わたしにとって上が怖いと感じなくなったのは60歳頃からでしょうか。
そして、若い者から置いていかれる不安を感じ始めたのはそのあたりから65までの間かなと思います。
定年という制度でなくても、やはりそのような年代に分水嶺はあるようです。
恣意的なことでない限り、人生の先輩が後輩に怖い存在であるというのは、教育的な意味で必要かと思います。怖いと思うからできることもあるからです。

分水嶺を越すと、若い者に対する怖さが加速度的に増えるのだろうと思うことです。
家の中心が若い者に移っていく、仕事ができなくなる、収入がなく、食べてるだけになる。
体が動くなくなり、病院施設のお世話になる。
こんな自分を家族はどう思っているのか。邪魔な存在と思っているのか。
田舎で独り暮らしは心配だから子どものところへ来いという。
行きたくはないけれど子に従わなければならないのか。
どんどん子どもに叱られる。
叱られることは親でも子でも怖いことです。
親が子どもに叱られることは教育的でもないでしょう。
でも、それが親子の自然の流れならば受け止めるしかありません。
昔のように姥捨て山があるわけではありません。
寂しいけれど施設で最後を過ごすのは、姥捨て山よりはましです。
そんなことならいつまでも生きてやれ。
寝たきりで垂れ流しであろうが、人間の最後はこうなのだと思い知らせた方がいい。
「何生意気なこと言ってるんだ、お前もやがてこうなるんだぞ」と見せてやればいい。
いい死に方なんてない。生死には善も悪もないんだから。
命は命にまかせて、さらけ出して生きればいいのだ。
「人生下り坂最高」という人もいますが、それもそうだ。
自分の人生を死ぬまで生きればいいんだ。

 その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
 おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな (中島みゆき『宙船』)


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。