三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第339回。11月14日、日曜日。
昨日13日は花の鶴楯を創る会の作業日でした。
遅れていた森林組合による伐採がようやく入り、山の裾野に桜を10本植える作業と、参道の急な部分に階段を設置しました。
23日にもう一度作業して、間もなく雪が降るので今年度の活動は終了です。
来年度以降も伐採と植樹を継続して、やがて桜の山となり地元の心のシンボルになることを夢見ています。
木曜日悲報が飛び込んできました。
河北町の和田酒造の社長が9日に亡くなったとのこと。
河北町の寺に居た時に親交があり、いろんな場でお話をさせていただき、毎年の蔵開きにもお邪魔させていただきました。
温厚篤実な人格で、町民に限らず誰からも信頼され親しまれていました。河北町の町長へ押されたことも一度や二度ではありませんでした。その度に「蔵を守るため」という理由で辞退されたと聞いています。
最上の地酒造りをこの蔵に依頼したのは、そんな和田多聞社長の人柄に惚れていたからというのが大きな理由です。
11日の夕方のニュースでは、東北清酒鑑評会でこの蔵の代表銘柄「月山丸」が評価員特別賞を受賞されたという報道があり、その中のインタビューで「受賞の知らせを受けた時に社長はまだ家に居て、大変喜んでいた」と語った茂樹専務の大粒の涙がとても印象的で感銘を受けました。
今後茂樹さんがこの蔵を切り盛りしていくことになると思われますが、先代にたがわず実直な性格なので、きっと変わらない酒の味を引き継いでくれることと信じます。
「山と水と、」の完成を祝う会には多聞社長にもおいでいただいて、喜びを分かち合うことをとても楽しみにしていました。それができないことが何より残念至極、痛恨の極みです。
心よりご冥福をお祈りいたします。
人は本当に死ぬのですね。
まさかと思っていた人も次から次へとこの世を去っていきます。
愛する人も、かけがえのない人も、延命の願いも空しくあっけなく亡くなっていきます。
誰にも死を止めることはできません。
こんなつらい別れをするなら出会わなければよかった。その願いも叶わないことです。
人が一人では生きていけない以上、必ず誰かと出会わなければならない運命です。
嫌いな人もいれば、好きな人もいます。
嫌いな人ばかりではなく、好きな人とも別れなければならない。それは出会うことの喜びとのセットなのです。
別れのない出会いはありません。
常にその覚悟はしていなければならないのに、出会いながら別れは避けたいというのが人情です。
必ず別れはやって来るのであるならば、出会っている今こそ、その出会いの喜びを最大限に謳歌すべきでしょう。
別れがどんなにつらくても、それ以上の喜びを感じることがあったならば、やがて悲しみも受け入れることができるように思います。
いや、喜びと悲しみを比べたり、プラス・マイナス計算するようなことではありません。
喜びは厳然とした喜びであり、悲しみは厳然たる悲しみです。
ただ、今を喜ばずに悲しみばかりを待つようなことはもったいないと思うことです。
数ある人の中で、この人とせっかく出会ったのですから、その出会いの中から得られる喜びは充分に味わっていきたいと思います。
喜びを、相手や他人に任せてはなりません。
自らの人生を喜ぶのは自分自身ですから、自分から積極的に喜ぼうとしなければ喜びは得られるものではないでしょう。
こういう話をするとき、必ず頭に浮かぶのは、アフガン難民キャンプで聞いた人身売買によって臓器移植のためだけに生かされている子どもたちのことです。
「自分の命を自分でどうにもできない境遇の人はどうするのだ」。
「家畜のように生かされているだけの人に喜びなどあるというのか」。
そのように常に自分に問いかけてきます。
悲しい現実の中に生きている人は確かにいて、自分の力ではどうにもならないことを知っています。
それを忘れたふりするわけではありません。
しかし、だからこそ、自分で喜びを作れる境遇にいる人は、そうしないではいけないと思うことです。
自分自身もやがて死ぬのです。
別れたくない人の元から、自ら去っていきます。
蓮の葉の上の露のような命です。
いつ死ぬかも分からない命が、今ここにあることはむしろ奇跡のようなことで、決して当たり前のことではありません。
奇跡の一日を無駄に過ごしていいはずがありません。
あなたの今日一日が、喜び多い一日でありますように。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
昨日13日は花の鶴楯を創る会の作業日でした。
遅れていた森林組合による伐採がようやく入り、山の裾野に桜を10本植える作業と、参道の急な部分に階段を設置しました。
23日にもう一度作業して、間もなく雪が降るので今年度の活動は終了です。
来年度以降も伐採と植樹を継続して、やがて桜の山となり地元の心のシンボルになることを夢見ています。
木曜日悲報が飛び込んできました。
河北町の和田酒造の社長が9日に亡くなったとのこと。
河北町の寺に居た時に親交があり、いろんな場でお話をさせていただき、毎年の蔵開きにもお邪魔させていただきました。
温厚篤実な人格で、町民に限らず誰からも信頼され親しまれていました。河北町の町長へ押されたことも一度や二度ではありませんでした。その度に「蔵を守るため」という理由で辞退されたと聞いています。
最上の地酒造りをこの蔵に依頼したのは、そんな和田多聞社長の人柄に惚れていたからというのが大きな理由です。
11日の夕方のニュースでは、東北清酒鑑評会でこの蔵の代表銘柄「月山丸」が評価員特別賞を受賞されたという報道があり、その中のインタビューで「受賞の知らせを受けた時に社長はまだ家に居て、大変喜んでいた」と語った茂樹専務の大粒の涙がとても印象的で感銘を受けました。
今後茂樹さんがこの蔵を切り盛りしていくことになると思われますが、先代にたがわず実直な性格なので、きっと変わらない酒の味を引き継いでくれることと信じます。
「山と水と、」の完成を祝う会には多聞社長にもおいでいただいて、喜びを分かち合うことをとても楽しみにしていました。それができないことが何より残念至極、痛恨の極みです。
心よりご冥福をお祈りいたします。
人は本当に死ぬのですね。
まさかと思っていた人も次から次へとこの世を去っていきます。
愛する人も、かけがえのない人も、延命の願いも空しくあっけなく亡くなっていきます。
誰にも死を止めることはできません。
こんなつらい別れをするなら出会わなければよかった。その願いも叶わないことです。
人が一人では生きていけない以上、必ず誰かと出会わなければならない運命です。
嫌いな人もいれば、好きな人もいます。
嫌いな人ばかりではなく、好きな人とも別れなければならない。それは出会うことの喜びとのセットなのです。
別れのない出会いはありません。
常にその覚悟はしていなければならないのに、出会いながら別れは避けたいというのが人情です。
必ず別れはやって来るのであるならば、出会っている今こそ、その出会いの喜びを最大限に謳歌すべきでしょう。
別れがどんなにつらくても、それ以上の喜びを感じることがあったならば、やがて悲しみも受け入れることができるように思います。
いや、喜びと悲しみを比べたり、プラス・マイナス計算するようなことではありません。
喜びは厳然とした喜びであり、悲しみは厳然たる悲しみです。
ただ、今を喜ばずに悲しみばかりを待つようなことはもったいないと思うことです。
数ある人の中で、この人とせっかく出会ったのですから、その出会いの中から得られる喜びは充分に味わっていきたいと思います。
喜びを、相手や他人に任せてはなりません。
自らの人生を喜ぶのは自分自身ですから、自分から積極的に喜ぼうとしなければ喜びは得られるものではないでしょう。
こういう話をするとき、必ず頭に浮かぶのは、アフガン難民キャンプで聞いた人身売買によって臓器移植のためだけに生かされている子どもたちのことです。
「自分の命を自分でどうにもできない境遇の人はどうするのだ」。
「家畜のように生かされているだけの人に喜びなどあるというのか」。
そのように常に自分に問いかけてきます。
悲しい現実の中に生きている人は確かにいて、自分の力ではどうにもならないことを知っています。
それを忘れたふりするわけではありません。
しかし、だからこそ、自分で喜びを作れる境遇にいる人は、そうしないではいけないと思うことです。
自分自身もやがて死ぬのです。
別れたくない人の元から、自ら去っていきます。
蓮の葉の上の露のような命です。
いつ死ぬかも分からない命が、今ここにあることはむしろ奇跡のようなことで、決して当たり前のことではありません。
奇跡の一日を無駄に過ごしていいはずがありません。
あなたの今日一日が、喜び多い一日でありますように。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。