三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第345回。12月26日、日曜日。
クリスマスを宗教行事として迎えている日本人は、クリスチャン以外では極稀だと思われます。
もしかしたら、初詣も宗教行事という意識はないかもしれません。
よく言われることですが、12月24日にクリスマスをやり、大晦日にお寺で除夜の鐘を撞き、元旦に神社に初詣をすることに何の違和感を感じない日本人の宗教感覚はどうなのかと。
それは、どれも宗教行事ととらえていないからなのでしょうね。
特にクリスマスなどは、二十四節気の仲間入りをするのではないかと思われるほど日本人にとって当たり前の行事となりました。
ずいぶん前、坐禅に触れてそのまま出家し、禅僧となって来日したアメリカ人女性が、「友だちとこっそりクリスマスをしたの」とはにかみながら話していたことを思い出します。
「こっそり」というところに若干の罪悪感を感じられますが、日本のお寺でも「こっそり」クリスマスツリーを飾っているところは珍しくないと思われます。
かく言う我が寺でも、子どもが小さい頃は飾りました。若干の後ろめたさを感じながら。
この国では、経済活動とうまく結びついたものは、宗教とは関係なく、すごい勢いで広まるものなのでしょう。そこに後ろめたさのようなものは微塵も感じられません。
クリスマスは戦後復興の象徴のような役割を担っていたのではないかと思います。
一方冬至は、宗教行事ではありませんが、二十四節気の中でもとても大きな意味を持つ行事です。
太陽の力が最も弱まり、いわば一度死んで、次の日から復活するという節目ととらえるため、その日を何とか耐えて、新たな太陽を迎えようとする希望を感じる日でもあったわけです。
クリスマスの起源は、キリストの誕生と冬至の行事が結びついたという説も読んだことがあります。
洋の東西を問わず大きな意味を持った行事だったということでしょう。
しかし日本では、ゆずと南瓜が少し売れる程度で、クリスマスのように経済活動総動員とはなりませんでした。
その静かな迎え方が日本らしいと感じることもあります。ただ、クリスマスの陰で忘れられたりなくなったりしてはいけないと思います。
中には二十四節気にうまく経済活動を結びつけた例もあります。
立春前日の節分は豆まきと決まっていますが、最近は恵方巻の方が幅を利かせているように感じます。
この風習、上方の方から始まったと聞き及びますが、既に国民行事になったでしょうか。経済活動は結構なことですが、無駄な食糧廃棄だけはなくしてもらいたいと思います。
二十四節気そのものではありませんが、それと関連のある土用丑の日の鰻。
これも、上手く経済活動と結びついた例と言えますね。
「土用」という意味は知らなくても、「土用丑の日」という張り紙を見ただけで「鰻」を思い浮かべる日本人は多いでしょう。
雛祭りや端午の節句、七五三などは子どもの成長を祝うという行事で、経済活動とは違う意味で大切にされてきたものだと思います。
それぞれ決まった期日がありますが、季節を味わう他の二十四節気とは少し違う、別の意味合いをもった行事と言えるでしょう。
拡大してみれば、彼岸やお盆の行事も季節と密接な関係があり、節句と似た意味合いの行事と言えるかもしれません。
このように、四季がはっきりしている日本では、行事の起源の意味よりも、それを生活の中にどう取り組むか、どう活かすかという点に重点が置かれてきたのだろうと思われます。
川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの記念スピーチは『美しい日本の私』というタイトルだったとのこと。
冒頭に道元禅師の和歌「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」を紹介してスピーチは始まったと。
そこで思うことは、日本人は、宗教というとらえ方よりも自然を敬うことを優先してきた民族なのではないかということです。
むしろ、自然へ対する畏敬の念に宗教を取り込んだ、あるいはダブらせたという感じがします。
自然崇拝を「八百万の神」と呼んできたのだと思いますが、その中には仏教の仏も、キリストの神も含んでしまうのかもしれません。
そのように、自然そのものを神格化して崇める民族であるならば、自然を破壊することにはもっと敏感に怖れと怒りを感じなければならないはずです。
それを経済活動で目くらましされてはなりません。経済は自然でもなければましてや神でもないのですから。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
クリスマスを宗教行事として迎えている日本人は、クリスチャン以外では極稀だと思われます。
もしかしたら、初詣も宗教行事という意識はないかもしれません。
よく言われることですが、12月24日にクリスマスをやり、大晦日にお寺で除夜の鐘を撞き、元旦に神社に初詣をすることに何の違和感を感じない日本人の宗教感覚はどうなのかと。
それは、どれも宗教行事ととらえていないからなのでしょうね。
特にクリスマスなどは、二十四節気の仲間入りをするのではないかと思われるほど日本人にとって当たり前の行事となりました。
ずいぶん前、坐禅に触れてそのまま出家し、禅僧となって来日したアメリカ人女性が、「友だちとこっそりクリスマスをしたの」とはにかみながら話していたことを思い出します。
「こっそり」というところに若干の罪悪感を感じられますが、日本のお寺でも「こっそり」クリスマスツリーを飾っているところは珍しくないと思われます。
かく言う我が寺でも、子どもが小さい頃は飾りました。若干の後ろめたさを感じながら。
この国では、経済活動とうまく結びついたものは、宗教とは関係なく、すごい勢いで広まるものなのでしょう。そこに後ろめたさのようなものは微塵も感じられません。
クリスマスは戦後復興の象徴のような役割を担っていたのではないかと思います。
一方冬至は、宗教行事ではありませんが、二十四節気の中でもとても大きな意味を持つ行事です。
太陽の力が最も弱まり、いわば一度死んで、次の日から復活するという節目ととらえるため、その日を何とか耐えて、新たな太陽を迎えようとする希望を感じる日でもあったわけです。
クリスマスの起源は、キリストの誕生と冬至の行事が結びついたという説も読んだことがあります。
洋の東西を問わず大きな意味を持った行事だったということでしょう。
しかし日本では、ゆずと南瓜が少し売れる程度で、クリスマスのように経済活動総動員とはなりませんでした。
その静かな迎え方が日本らしいと感じることもあります。ただ、クリスマスの陰で忘れられたりなくなったりしてはいけないと思います。
中には二十四節気にうまく経済活動を結びつけた例もあります。
立春前日の節分は豆まきと決まっていますが、最近は恵方巻の方が幅を利かせているように感じます。
この風習、上方の方から始まったと聞き及びますが、既に国民行事になったでしょうか。経済活動は結構なことですが、無駄な食糧廃棄だけはなくしてもらいたいと思います。
二十四節気そのものではありませんが、それと関連のある土用丑の日の鰻。
これも、上手く経済活動と結びついた例と言えますね。
「土用」という意味は知らなくても、「土用丑の日」という張り紙を見ただけで「鰻」を思い浮かべる日本人は多いでしょう。
雛祭りや端午の節句、七五三などは子どもの成長を祝うという行事で、経済活動とは違う意味で大切にされてきたものだと思います。
それぞれ決まった期日がありますが、季節を味わう他の二十四節気とは少し違う、別の意味合いをもった行事と言えるでしょう。
拡大してみれば、彼岸やお盆の行事も季節と密接な関係があり、節句と似た意味合いの行事と言えるかもしれません。
このように、四季がはっきりしている日本では、行事の起源の意味よりも、それを生活の中にどう取り組むか、どう活かすかという点に重点が置かれてきたのだろうと思われます。
川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの記念スピーチは『美しい日本の私』というタイトルだったとのこと。
冒頭に道元禅師の和歌「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」を紹介してスピーチは始まったと。
そこで思うことは、日本人は、宗教というとらえ方よりも自然を敬うことを優先してきた民族なのではないかということです。
むしろ、自然へ対する畏敬の念に宗教を取り込んだ、あるいはダブらせたという感じがします。
自然崇拝を「八百万の神」と呼んできたのだと思いますが、その中には仏教の仏も、キリストの神も含んでしまうのかもしれません。
そのように、自然そのものを神格化して崇める民族であるならば、自然を破壊することにはもっと敏感に怖れと怒りを感じなければならないはずです。
それを経済活動で目くらましされてはなりません。経済は自然でもなければましてや神でもないのですから。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。