三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第373回。7月10日、日曜日。
安倍元首相が銃撃され亡くなりました。
無差別殺人であろうが、怨恨の殺人、暴行殺人、なんであろうと殺人が許されるわけではありません。
人が殺されることは、少なからず人々にショックを与えます。
ただ、元首相が対象という場合は、国全体を揺るがす大きなショックであることは間違いありません。
SPも警護していたのだろうし、大勢の群衆の中で、その真ん中で注目を集める演説中に、まさかこんなことが起こるとは。しかも5mという至近距離から。
いったいどうしてこんなことが起こり得るんだろう。時代感覚がマヒしそうです。
犯人の動機と理由はどうあれ、何が起こるか分からないということに慄然とし背筋が寒くなる思いです。
世界中の流れがどうもおかしい。
動かないと思っていた大岩が、ゴロゴロと崩れ落ちていくような胸騒ぎがします。
この時代にまさかの戦争が起こったり、この時代にまさかの大物政治家の銃撃があったり、これ以上のまさかがないことを願いますが、これが暗黒の時代への号砲にならなければいいと漠然とした不安を感じます。
実力行使ではなく、なぜ言葉を使わないのか。
相手を攻撃することで意思疎通を図るとか、理解し合うというようなことはありえません。
相手の意見を聞き、誤解を解いたり、理解し合えないところは妥協点を見つけるとか、それは全て言葉によるやりとりです。
言葉を持たない動物ではないのですから、人間の能力を発揮しないのは怠慢でしかありません。
武力や暴力に対して同じ手段で対抗しようという構え方も同じように怠慢という以外ありません。
もっと言葉を使いましょう。
以前「バイオリズム」というのが流行ったことがありました。
身体と感情と知性には一定の周期があって、誕生日から計算して現在どういう周期にあるかというのを自己認識できるというような概念です。
観光地やデパートなどにそれを測定する機械があって、100円でその時の自分のバイオリズムを測ることができるという代物でした。
恋愛とか金運とか、占いのような使い方をしていたように記憶しています。いつの間にか消えていましたが、根拠の薄い疑似科学の提唱だったようです。
そんな懐かしい言葉が頭に浮かんだのは、どうも近頃気分が沈んでいるからです。
周りのみんながそれぞれ活躍してキラキラ輝いて、自分一人が置いてけぼりになっているような焦りを感じます。
そういう時には決まって、封印していた嫌な思い出が次々と顔を出して尚のこと暗い気持ちになります。
暇なせいかもしれません。
学生時代から、自己嫌悪に陥り苦しむのは暇であることが原因だと自分の中で診断ができていて、悩む時間がないように無理やり用事を詰め込むという対処療法を身につけてきました。
ただ最近は、暇であってもさほど苦しまないこともあり、それほど暇でなくとも悩むこともあります。
なので、バイオリズムが、と原因を他に求めてみたくなるのです。
昔から徒党を組むことが好きではありませんでした。
徒党を組むくらいなら孤独の方がマシと思ってきました。
それは、周りからみれば傲慢だったのかもしれません。
自分だけいいカッコして。周りをバカにして見ているんだろう。
確かにそう見えたのではないかと振り返って感じることがあります。
周囲の人が、陰であんなことこんなことを言っているのではないかと、特定の人の顔と声で想像されます。
孤独であろうが、誰に何を言われようが、自分のしたいことをやり通す。足を引っ張るようなマイナスの意見は耳を塞いで聞こえないようにする。
そんな風に過ごしてきたように思います。
それで何も怖いことがないという自体に年齢が関係しているかもしれません。若気の至りとか。
老いぼれてきたのでしょうか。
動物の世界でも、老いぼれたオスは世代交代で若オスにボスの座を奪われるらしいので、その寂しさを感じてきているのかもしれません。
それが自然のあり様であるならば、その寂しさを味わっていくしかありません。
若い者のキラキラした姿をまぶしそうに眺め、オレもあんな時があったなと感慨深げに回想し、これでいいのだと自分に言い聞かせて静かに過ごす。
それが隠遁生活というものなのでしょう。
夏の暑苦しい時期よりも、落ち着いた秋の季節が高齢者には向いています。まさに自然の流れですね。
バイオリズムではなく、少しずつ失っていく寂しさに慣れていくための下降線上のことなのだと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
安倍元首相が銃撃され亡くなりました。
無差別殺人であろうが、怨恨の殺人、暴行殺人、なんであろうと殺人が許されるわけではありません。
人が殺されることは、少なからず人々にショックを与えます。
ただ、元首相が対象という場合は、国全体を揺るがす大きなショックであることは間違いありません。
SPも警護していたのだろうし、大勢の群衆の中で、その真ん中で注目を集める演説中に、まさかこんなことが起こるとは。しかも5mという至近距離から。
いったいどうしてこんなことが起こり得るんだろう。時代感覚がマヒしそうです。
犯人の動機と理由はどうあれ、何が起こるか分からないということに慄然とし背筋が寒くなる思いです。
世界中の流れがどうもおかしい。
動かないと思っていた大岩が、ゴロゴロと崩れ落ちていくような胸騒ぎがします。
この時代にまさかの戦争が起こったり、この時代にまさかの大物政治家の銃撃があったり、これ以上のまさかがないことを願いますが、これが暗黒の時代への号砲にならなければいいと漠然とした不安を感じます。
実力行使ではなく、なぜ言葉を使わないのか。
相手を攻撃することで意思疎通を図るとか、理解し合うというようなことはありえません。
相手の意見を聞き、誤解を解いたり、理解し合えないところは妥協点を見つけるとか、それは全て言葉によるやりとりです。
言葉を持たない動物ではないのですから、人間の能力を発揮しないのは怠慢でしかありません。
武力や暴力に対して同じ手段で対抗しようという構え方も同じように怠慢という以外ありません。
もっと言葉を使いましょう。
以前「バイオリズム」というのが流行ったことがありました。
身体と感情と知性には一定の周期があって、誕生日から計算して現在どういう周期にあるかというのを自己認識できるというような概念です。
観光地やデパートなどにそれを測定する機械があって、100円でその時の自分のバイオリズムを測ることができるという代物でした。
恋愛とか金運とか、占いのような使い方をしていたように記憶しています。いつの間にか消えていましたが、根拠の薄い疑似科学の提唱だったようです。
そんな懐かしい言葉が頭に浮かんだのは、どうも近頃気分が沈んでいるからです。
周りのみんながそれぞれ活躍してキラキラ輝いて、自分一人が置いてけぼりになっているような焦りを感じます。
そういう時には決まって、封印していた嫌な思い出が次々と顔を出して尚のこと暗い気持ちになります。
暇なせいかもしれません。
学生時代から、自己嫌悪に陥り苦しむのは暇であることが原因だと自分の中で診断ができていて、悩む時間がないように無理やり用事を詰め込むという対処療法を身につけてきました。
ただ最近は、暇であってもさほど苦しまないこともあり、それほど暇でなくとも悩むこともあります。
なので、バイオリズムが、と原因を他に求めてみたくなるのです。
昔から徒党を組むことが好きではありませんでした。
徒党を組むくらいなら孤独の方がマシと思ってきました。
それは、周りからみれば傲慢だったのかもしれません。
自分だけいいカッコして。周りをバカにして見ているんだろう。
確かにそう見えたのではないかと振り返って感じることがあります。
周囲の人が、陰であんなことこんなことを言っているのではないかと、特定の人の顔と声で想像されます。
孤独であろうが、誰に何を言われようが、自分のしたいことをやり通す。足を引っ張るようなマイナスの意見は耳を塞いで聞こえないようにする。
そんな風に過ごしてきたように思います。
それで何も怖いことがないという自体に年齢が関係しているかもしれません。若気の至りとか。
老いぼれてきたのでしょうか。
動物の世界でも、老いぼれたオスは世代交代で若オスにボスの座を奪われるらしいので、その寂しさを感じてきているのかもしれません。
それが自然のあり様であるならば、その寂しさを味わっていくしかありません。
若い者のキラキラした姿をまぶしそうに眺め、オレもあんな時があったなと感慨深げに回想し、これでいいのだと自分に言い聞かせて静かに過ごす。
それが隠遁生活というものなのでしょう。
夏の暑苦しい時期よりも、落ち着いた秋の季節が高齢者には向いています。まさに自然の流れですね。
バイオリズムではなく、少しずつ失っていく寂しさに慣れていくための下降線上のことなのだと思います。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。