三ちゃんのサンデーサンライズ。第502回。令和7年1月19日、日曜日。
喪失感をかなり引きずっています。
単なる仲間ではなかったんだと改めて感じます。
13日山形に帰って、14日はお寺の「おさいど」。16日は小正月と、正月行事が続きました。
出かける直前からまとまった雪が降り、水分の多い雪のため重くて難渋しています。
屋根の雪が落ちず、茶の間の障子戸が開かなくなりました。
昨日は何とか雪下ろしを決行しました。
息子と甥っ子が手伝ってくれて何とか難儀なところは終わしました。
甥っ子がネットオークションで20万円で購入したという30年物の中古除雪機を持ってきました。
彼は自分で整備もできてしまうので、こんな年代物でも使えるようにしてしまいます。
寺のガソリン16馬力よりも大きい30馬力ディーゼルなので力が強く、重い雪もよく飛ばすので十分に使えます。
今除雪機がなければ雪国は立ち行きません。
昔の冬を思い返してみると、私が高校生の頃まで参道は踏み固めていました。
踏み俵と呼んでいたのか、藁で作った俵のような大きな履物で一歩一歩踏み固めて道を作るのでした。
降って踏み降って踏みなので、道はどんどん高くなります。
国道から参道に階段を作って上がり、山門で階段を下りてまた上がり、玄関でまた下りるという道でした。
車という考えは全くありませんでした。
春になると踏んだところだけが馬の背のように高くなり、踏み外すと大きくぬかってしまうのでした。
いつの頃からか車対応になり、地下水の消雪設備を備えて対応していました。
しかし、長い参道を水できれいに消すのは難しく、消え残った雪の島を車が通るとそこがだんだん固く高くなり車の通行にも支障を来します。またそれを処理するのに苦労していました。
ということで、私が住職して数年経ってから除雪機になりました。
雪が降ると朝1時間半は除雪にかかります。
雪国でなければこんな苦労も経費も必要ないのにとは思いますが、ここで生きている者にとってこれが当たり前だと思えば何とかなるものです。
他所と比べても詮なきことです。
タイのような常夏の国であればと考えても、そこにはそこの苦労があるでしょう。
この限られた自分の命、もちろん自分の持ち物ではありませんが、自分の意思で使えるこの命。
住みたいところに住むという選択もありますが、ここに生まれここで育ったという抗えない経過があります。
今さら他所で暮らすという煩わしさを選択するより、ここでこの中でどう生きるのかという生き方に注力した方が楽なように思えます。
後わずかの残り時間、環境の条件ではなく、毎日のルーティンの中でどう生きるのか。
他所と他人と比べるよりも、自分の生き方を調えていく。
環境を変えたいと強く思うことはありますが、年齢とともに思いが自分に向かっているように思います。
時間を自分を調えることに使っていく、もうそれぐらいしか有効な時間の使い方は残されていないのではないか、と思います。
まず起きたら顔を洗う、歯を磨く、仏様に手を合わせる。
手を合わせることができることがとても大きな宝だと言えます。
合掌は、他を敬い、感謝し、自らの慈悲心を養い、自らを装う美しい姿です。
合掌して食事をいただきます。食べられることは当然のことではありません。
自分の仕事、役割があることはありがたいことです。誰からも必要とされないことは悲しいことです。
今日自分が使える命がここにあることを感謝していきましょう。
人生は実に短い。いつ終わりが来るか分からない実に儚い命です。
今週の一言
「人と別れる度、命について考える」
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。