三ちゃんのサンデーサンライズ。第474回。令和6年7月7日、日曜日。
日曜日から金曜日まで東京でした。
令和6年度曹洞宗布教師養成所の第1回目。
合計50名の若き僧が布教師の勉強のために年3回集います。
今年度年間テーマに掲げたのは、「法が良薬ならば」。
「我は良医の病を知って薬を説くがごとし」と『遺教経』にあります。
仏法、仏の教えは衆生を苦悩から救う「良薬」だとしています。
であるならば、現代社会の苦悩に対して、仏教はどんな救いー薬を処方することができるのか。
苦悩には数々の種類があります。
それを以下の3つの種別に分類しました。
①根本苦ースピリチャル・ペイン
生老病死に代表される人間が生きている限り離れることのできない根本的な苦悩。
②社会苦ーソーシャル・ペイン
社会的な問題に起因する苦悩。人権、差別、貧困、いじめ、戦争、災害、LGBTQ、DV、などなど。
時代によってその種類は広がりまた増え続けています。
③生きがい苦ーライフプラン・ペイン
価値観の多様化が進む現代社会の「生きがい」の模索。
やりたいことが見つからない、生きづらさ、ひきこもり、自殺願望、存在感の喪失、仕事上の悩み、生きがいの喪失、引退後の人生。などなど。
それらの苦悩の中にいる人々に向き合い、寄り添い、語りかける言葉として、どんな教えが有効なのか。それを学ぼうとしています。
第1回目の今回は、生老病死の苦悩に寄り添い、その痛みに対する法の処方箋を互いに出し合って学びました。
テーマの関係で、数々の別れの例話が出てきました。多くの死の場面に立ち会ったような感じです。
悲しみに出会うほど自らの慈悲心を呼び戻すことができるでしょう。
その場合自分だったらどんな話ができるだろうかと考えながら学びます。
朝の5時30分から夜9時まで、坐禅、朝課の後はひたすら人の話に耳を傾け講評用紙を記入する時間です。
それだけでかなりの頭の重労働ですが、テーマがテーマだけに心も疲れた感じです。
東京からの帰り、鳴子温泉駅で、キャリーケースを持ってホームの跨線橋の階段を登ろうとしたら後ろから「荷物持ちましょうか」と声がしました。
振り向くと、高校生と思しき笑顔のさわやかな青年でした。
とっさに「大丈夫、ありがとう。」と答えました。
遠慮したのか強がりだったのか。
今までそんな経験はないので単に驚いたのかもしれません。
そんなに辛そうに見えたのか、いたわってあげなければならないと思わせる年齢に見えたのか。
確かに世間的には高齢者と呼ばれる年齢ではある。疲れているようにも見えたでしょう。実際に疲れていました。
それにしても、そうなのか、と老いを自覚せざるを得ない出来事でした。
しかし、彼の、善行を積む功徳を奪ってしまったかと後悔しました。
次からは、老いの自覚のもとに力を借りたいと思います。
ああ、あのさわやかな笑顔。いいなあ、若いって。
今週の一言。
「若いってすばらしい!」
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
遺教経のこの文言は、私もよく引き合いに出すのですが、「応病与薬」しかありえないのに、万能薬提示ばかりにこだわっておりました。
我が身を振り返って反省しきり。
ところで、私も初めて席を譲られたときは「大丈夫です」と断ってしまいました。
自分が周囲の人の眼にどのように映っているのか、自己客観視ができていない、というか、「私は変わらぬままにある」(=これが「自性」の〈インド的に〉正しい意味なのですが)という思い込み。
今週の内容には、特に自己を顧みました。
老師も、どうぞ、法体堅固にお過ごしください。
重そうだからではなく、高齢だから声をかけたのだと気づくのに少し間がありました。青年の好意に素直に応えるべきでした。
たえず「気づき」を求めておられる
御老師。日々の「杖言葉」として
拝聴させていただきます。
ありがとうございました。
コメントありがとうございます。弁道を祈ります。