なあむ

やどかり和尚の考えたこと

カンボジアのお母さん

2012年11月15日 20時55分02秒 | シャンティ国際ボランティア会

前にもこのタイトルで記事をUPしたと思ったのですが、消えていました。思い違いだったでしょうか。FACEBOOKと混同してるかも。

32年前難民キャンプで出会ったカンボジアのお母さんニャン・サンさんが11月5日埼玉県東松山で亡くなりました。86歳でした。

1980年、ボランティアとして2ヶ月間滞在したサケオ・カンボジア難民キャンプ。

縁あって一家族と知り合いになりになりました。

トン・バンお父さん、ニャン・サンお母さん、ハッチ、ホッチ、マーチ、モッチの子どもたち、それにラ・ブンという里子が、六畳間ぐらいの仮設の建物に暮らしていました。

日本に帰る間際のある晩、夕食に誘われました。

難民の家族に食事をご馳走になる?迷いましたが、友情の証にと言われて断り切れず、4名のボランティアがご馳走になることになりました。

配給の限られた食材で、最大限のもてなしをしてくれたことがありありと分かります。

砂の入り交じったご飯、調味料の足りないスープ。お世辞にもおいしいとは思えませんでした。

でも、お父さんと私たちが食べるのをお母さんと子どもたちは固唾を呑んで見守っています。

「チュガニ(おいしい)」と言うと、子どもたちの顔がパーッと明るくなって喜んでくれます。

私たちは互いに譲り合いながら、何とか冷や汗を流しながら飲み込みました。

食事が終わって、お母さんは、「私には、この子らの他に、一人の兄と二人の姉がいましたが、ポル・ポトの戦争で殺されました、だからおまえは今日から私の息子だよ」と言いました。

それ以来、私は、ニャン・サンのことを「お母さん」と呼んでいます。

実は、このときいただいた食事の材料は、この家族が「この日になったら日本の友だちにご馳走しよう」と、何日か前から少しずつ残してきたものだったことを後から知りました。

そんな貴重な食事をいただいたことを忘れるわけにはいきません。そして、いただいて良かったと心から思いました。

家族は、その後何年かして難民として日本にやってきました。

日本で再会を果たし、以来親戚のつきあいを続けてきました。

この度、お母さんの訃報を聞き、東松山に急行しました。

安らかできれいなままのお顔でした。

日本にやってきてから26年、いろいろな思いがあったでしょう。最期はきっとカンボジアの大地を思い浮かべていたのではないかと想像しました。

熱心な仏教徒だったお母さん、スタイルは違えども、黄色のお袈裟を身にまとって読経しました。

お骨は十数年前に亡くなったお父さんの時と同じく宿用院でお預かりすることにしました。

お父さんのお骨の一部は、今でも宿用院に安置しています。戒名もつけさせていただきました。

「徳実誠信居士霊位」

その隣にお母さんのお骨も安置して、一緒にお参りしました。

「徳風妙薫大姉霊位」

カンボジアには、お父さんも眠る親族のお墓があります。

子どもたちがお金を貯めて納骨に行く日まで、ここにお休みください。

優しく温かかったお母さん。

長い間お疲れ様でした。お世話になりました。おいしい食事ごちそうさまでした。

また会いたいです。

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